設立から毛皮貿易の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 02:46 UTC 版)
「ハドソン湾会社」の記事における「設立から毛皮貿易の時代」の解説
ハドソン湾会社は、現存する北米大陸最古の企業である。設立当時、イングランド王チャールズ2世の勅許状に記された正式名称は「ハドソン湾に於いて通商に従事するイングランドの総督ならびに冒険家の一団」(The Governor and Company of Adventurers of England trading into Hudson's Bay)という。同湾に流れ込む全ての河川の流域(ルパート・ランド)での毛皮独占取引権を許され、初代の総督をチャールズ2世の従兄に当たるカンバーランド公ルパートが務めた。初期に総督職に就いた人物には他にヨーク公ジェームズ(チャールズ2世の弟、後のジェームズ2世)、マールバラ公ジョン・チャーチルなどがいる。ハドソン湾会社はイングランド銀行の貸付を受けていたが、大同盟戦争終結まで複数の事業所が戦火に曝された。 1732年、イギリス東インド会社へ1万ポンドを投資して無用な競争を避けた。ピーター・オグデン(英語版)とサミュエル・ブラック(英語版)が親交を深めた結果、1821年ライバル会社のノースウェスト会社(北西会社、Northwest Company)を合併することができた。カナダをイギリス通貨圏に収めようという国策からすれば、ごく自然な出来事であった。純粋な通貨の絶対量が不足していた時代において、軽い毛皮が通貨のように使われた。多ければ倉庫証券としてボストン商人などの手にわたって流通した。 ゴールドラッシュが起きると毛皮の威力が落ちていくが、その前後1841年と1854年にサミュエルとオグデンが死んで、1846年にジョン・マクローリンも辞めた。1869年、ハドソン湾会社はルパート・ランドをカナダ自治領政府に譲渡し、毛皮貿易から小売業へ事業の中心を移した。この転換はジョン・A・マクドナルドの鉄道政策とも関係する。同年、ハドソン湾会社のドナルド・スミス(英語版)(1900年にマウント・ロイヤルのストラスコナ男爵を授爵)がマニトバ州に赴き、ガリー砦(英語版)の中でルイ・リエルと交渉した。スミスはメティの認知を申し出た。リエルの臨時政府は、ルパート・ランド移転を目的とした公共事業大臣ウィリアム・マクドゥガル(英語版)による測量調査を問題にしていた。スミスが改善策を示さなかったので、レッドリヴァーの反乱が起こった。スミスの従弟ジョージ・スティーヴン(英語版)は1873年モントリオール銀行の重役となり、1876年には頭取となった。マクドナルドの鉄道政策は小麦運搬を一つの目的としていたが、スミス家の力でマニトバとウィニペグの開発が進んでいった。
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