設立から第二次世界大戦まで
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「学校法人追手門学院」の記事における「設立から第二次世界大戦まで」の解説
1888年(明治21年)、大阪鎮台司令官であった高島鞆之助中将により、「国家有為の人材の育成」を掲げる大阪偕行社附属小学校が創設された。学校設立趣意書には「児童身体を鍛錬し、忠君愛国の精神を涵養し、質実剛健の志操及び独立自彊の心性の陶冶」を図るという教育方針が掲げられた。開設当初より英語授業を実施したことは「国際教育」重視の表れとして現代の学園沿革が特筆している。偕行社附属小学校は「西日本最古の私立小学校」であるとされる。 発足当初は「大阪偕行社社員の子弟」すなわち軍人の子弟を陸軍幼年学校や海軍兵学校に進ませるという「軍人養成」を目標に掲げていたが、1900年の小学校令(第三次小学校令)制定やその改正などに沿い、私立小学校施行規則に即した学校教育を行うこととなった。これにより軍人養成が目標から削除され、軍人子弟の比率は少ないものになった。1915年時点では、財界・法曹界・医学関係者子弟等が8割以上を占め、軍人子弟は2割にも満たなかったという。1913年に学校長に就任し、25年間その職にあった片桐武一郎は名校長とされ、片桐が定めた教育目標は戦後もほとんどが引き継がれた。 1935年、大阪偕行社は中学校(旧制中学校)設立を決定、寝屋川に用地を確保する。1940年には大阪偕行社附属中学校が設立された。しかし財政難のため、山下亀三郎が設立した山水育英会(学校法人桐朋学園の母体)に資金援助を求めて1941年に第二山水中学校となり、第二次世界大戦後は香里学園を経て、現在の同志社香里中学校・高等学校となっている。
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