設立から譲渡まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 19:11 UTC 版)
播但鉄道の設立は1893年(明治26年)で資本金は当初100万円、のち180万円であった。本社は、初め東京市京橋区(現中央区の一部)日吉町に設置されたが、1893年(明治26年)9月には姫路の西魚町に移され、東京には出張所が置かれた。本社はその後さらに飾磨郡国衙村に移転している。 1894年(明治27年)7月26日に姫路-寺前間で開業し、1895年(明治28年)4月7日には当初計画の飾磨-生野間が全通した。 和田山への敷設の仮免許は1894(明治27年)7月、本免許が1896年(明治29年)5月に下付された。そしてさらに1894年(明治27年)7月には、兵庫県津居山(現在の豊岡市、円山川の河口付近)への延長を出願した。この延長も京都鉄道、但馬鉄道との競願になったが、1896年(明治29年)5月に仮免許、翌年8月に本免許が下付された。 しかしこの後の経営は免許前の井上勝の具申書で予想されたように苦しく、生野-新井間の工事に着手したものの、工事が難航した区間が多く、新株での増資が十分に行えなかったため、社債で本工事を完遂させることで開通させた。この結果、播但鉄道は莫大な負債を負い、おりからの不況も相まって経営状況は悪化した。そのため、1901年8月に新井まで開通した段階で建設を中止した。さらに1902年には、和田山-津居山間の敷設免許を返納し、1903年3月には山陽鉄道と売却の仮契約を結び、播但鉄道は解散が決定した。払込資本金113万円、社債86万円に対して、山陽鉄道の年利6%の社債140万円が交付された。1903年5月30日に引き継がれた線路設備は路線35M57C、機関車6両、客車26両、貨車82両であった。 その後、新井-和田山間は山陽鉄道によって建設され、1906年に開業した。同年12月1日、鉄道国有法により山陽鉄道は国有化され、飾磨-和田山間は官設鉄道の一部となり、後に播但線と名称が定められた。播但線を延伸する形で敷設された山陰本線の東部分、当時の山陰東線と合わせて陰陽連絡路線の一つが完成した。
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