設立から岐阜県内唯一のトラックメーカーへとは? わかりやすく解説

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設立から岐阜県内唯一のトラックメーカーへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:28 UTC 版)

岐阜車体工業」の記事における「設立から岐阜県内唯一のトラックメーカーへ」の解説

十六銀行柳ケ瀬支店川合利之支店長紹介知り合った星野太郎川島信雄、野尻藤吉協力し1940年昭和15年10月1日に「岐阜車体工業株式会社」を設立したことが始まりである。 この創業者3名のうち、野尻藤吉野尻自動車工場川島信雄は川島ボデー製作所経営しており、共に当社創業以前からトラック車体製造修理手掛けていたが、1936年昭和11年)に公布施行された「自動車製造事業法」で自動車製造政府許可制になり、軍用トラック生産拡大のために企業合同による再編進めて自動車産業育成することが国策とされたことから、事業統合することになったのである。 ただし、3人の中で最年長であったことから初代社長就任したとされる星野太郎は、鉄骨工事と軍の砲弾旋盤加工する鉄工所経営唯一人車体製造未経験者であった設立時資本金15万円本社岐阜市長岩戸に置くことになったが、創業時従業員社長などの経営陣含めてもわずか23であった。 なお、当社設立後も、社長星野太郎自分会社星野商店」(後の星野鋼機)を別の企業として経営し続けた設立から半年たたない1941年昭和16年3月には岐阜市祈年町月産30台の能力を持つ本社工場完成させ、トラック車体一貫製造する体制構築し同年には従業員45名で320台のトラック車体を生産した。 さらに、1943年昭和18年)には同じ岐阜市内の二軒屋現・金園町にあった岐阜合同車体吸収合併して第2工場とし、岐阜県内唯一の車体メーカーとなった。 こうして岐阜県内では唯一のトラック車メーカーとなり、KC型呼ばれる軍用トラック運転台荷台といったボディー製造行ったが、鋼材不足の深刻化と共に運転台などは大半木材作ることになった

※この「設立から岐阜県内唯一のトラックメーカーへ」の解説は、「岐阜車体工業」の解説の一部です。
「設立から岐阜県内唯一のトラックメーカーへ」を含む「岐阜車体工業」の記事については、「岐阜車体工業」の概要を参照ください。

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