計算手としてのキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/21 23:22 UTC 版)
「キャスリーン・アントネッリ」の記事における「計算手としてのキャリア」の解説
卒業してから1、2週間後、彼女は『フィラデルフィア・インクワイアラー』紙で数学の学位を持つ女性を対象とする国家公務員の求人広告を見た。第二次世界大戦中、アメリカ陸軍は、弾道研究所(BRL)において弾道やミサイルの軌道を計算するための計算手として女性を雇用していた。BRLはメリーランド州アバディーンのアバディーン性能試験場に設立された研究所で、職員はアバディーン性能試験場のほかペンシルバニア大学ムーア・スクール(電気工学部)からも来ていた。 彼女はすぐに、大学でともに数学を学んだ友人であるフランシス・バイラスとジョセフィン・ベンソンにこの広告について電話した。ベンソンは都合がつかなかったので、アントネッリとバイラスは、1942年6月のある朝、フィラデルフィアのサウス・ブロード・ストリートのビルで面接を受けた。1週間後、2人は準専門職の公務員(給与等級SP-4)の計算手として雇用された。初任給は年間1620ドルだった。アントネッリは、給与について「当時としては非常に良かった」と述べている。彼女らは、ムーア・スクールに勤務するよう辞令を受けた。彼女らの仕事は、主に機械式卓上計算機と非常に大きな円柱状のシートを使用して、射表に記載するための弾道軌道を計算することだった。給与は低かったが、2人とも、それまでに受けた教育を活かせ、戦争遂行に貢献できる職につけたことに満足した。 彼女の雇用文書に印刷されている公務員としての肩書は"computer"(計算手)だった。アントネッリとバイラスは、他の約10人の女性たち(女性計算手(female computers)と呼ばれた)と、アバディーン試験場からムーア・スクールに派遣されて来た4人の男性とともに働き始めた。アントネッリとバイラスは、ムーア・スクールのかつては教室だった大きな部屋で仕事を行った。この部屋は、1946年12月にENIACが構築され運用されることになる部屋である。 アントネッリとバイラスの数学の知識は、射表の軌道計算を行うには十分ではなかった。2人とも軌道計算に使用される数値積分法に不慣れであり、借りた教科書もほとんど役に立たなかった。最終的に2人は、作業監督のリラ・トッドに教わって、小数点以下10桁まで正確に計算手順を実行する方法を学んだ。この期間に合計約75人の女性計算手がムーア・スクールに採用され、その多くはアデル・ゴールドスタイン、メアリー・モークリー、ミルドレッド・クレイマーによる研修を受講していた。それぞれの砲ごとに、約1,800の軌道を持つ独自の射表が必要だった。1つの軌跡を計算するだけで、計算機で約30〜40時間の手作業が必要だった。 2、3か月後、アントネッリとバイラスは、ムーア・スクールの地下にある微分解析機を取り扱うようになった。微分解析機は、当時最大かつ最も洗練された機械式アナログ計算機であり、世界に6台しかなく、アメリカではムーア・スクールのものが唯一だった(他の5台はイギリスにあった)。微分解析機は戦争の期間中はペンシルベニア大学に貸し出されていた。アントネッリはさらに微分解析機による計算の作業監督に昇進した。微分解析機室のスタッフは週に6日働き、日曜日以外の公休日はクリスマスと独立記念日だけだった。
※この「計算手としてのキャリア」の解説は、「キャスリーン・アントネッリ」の解説の一部です。
「計算手としてのキャリア」を含む「キャスリーン・アントネッリ」の記事については、「キャスリーン・アントネッリ」の概要を参照ください。
- 計算手としてのキャリアのページへのリンク