解体新書とは? わかりやすく解説

解体新書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/07 18:41 UTC 版)

解体新書』(かいたいしんしょ、旧字体表記解體新書)は、安永3年(1774年)刊の解剖学書。

原文はドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムス医学書 "独:Anatomische Tabellen "[注 1](直訳すれば『解剖学表』、『解剖図譜』等と訳されている。1722年初版)。クルムスの書の蘭訳本(オランダ語訳本) "蘭:Ontleedkundige Tafelen "[注 2]1734年刊、日本での通称は『ターヘル・アナトミア[注 3]』である。蘭訳されたのは、クルムスの書の第3版で、1731年のラテン語版・1732年のドイツ語版・同年のラテン語版(いずれもアムステルダムでの出版)のいずれかとされる[1]。『解体新書』は、蘭訳版を底本とし、杉田玄白の意見なども加筆されている。

西洋科学書の日本最初の本格的[注 4]な翻訳書であった。

著者として杉田玄白の名前が記されているが、翻訳の主役は前野良沢とされている[2]。江戸時代中期にあたる安永3年(1774年)、江戸日本橋板元須原屋市兵衛の下で刊行された。本文4巻、付図1巻。内容は漢文で書かれている。

成立への経過は杉田玄白の回想録『蘭学事始[3][4]詳述されている。

適塾所蔵『解体新書』
左に見える著名な扉絵ワルエルダ『解剖書』の表紙を模写し日本語の語句を加えたものと考えられており、底本ターヘル・アナトミアの扉絵とは異なるものである[5]

経緯

『ターヘル・アナトミア』(複製)/国立科学博物館の展示物。

すでに解剖学書ターヘル・アナトミア(Ontleedkundige Tafelen)を入手していた杉田玄白は、得能万兵衛という役人から、翌日の明和8年(1771年3月4日に小塚原で刑死体の解剖が行われるという通知を受け、同藩の中川淳庵と、普段は交際のない中津藩医の前野良沢に通知し、ともに連れ立ち小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)を見学した。そのさい良沢もまた偶然おなじ版のターヘル・アナトミア を所持しおり、その奇遇を喜び合った。玄白も良沢も実際の解剖と見比べて『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚嘆し、これを翻訳しようと相談しあった。翻訳を言い出したのは玄白であり、かねてから蘭書翻訳の志を抱いていた良沢はこれに賛同し、淳庵も加えて翌日3月5日から築地鐵砲洲の良沢邸に集まって翻訳を開始した。

当初、玄白と淳庵はオランダ語を読めず、オランダ語の知識のある良沢も翻訳を行うには語彙が乏しかった。オランダ語の通詞長崎にいるので質問することも難しく、当然ながら辞書も無かったため、翻訳作業は暗号解読に近かった(この様子については玄白晩年の著書『蘭学事始』に詳しい)。玄白は、この厳しい翻訳の状況を「櫂や舵の無い船で大海に乗り出したよう」と表した。安永2年(1773年)、翻訳の目処がついたため、世間の反応を確かめるために『解体約図』を刊行している。

安永3年(1774年)、玄白の友人で奥医師の桂川甫三(甫周の父)経由で『解体新書』を将軍に献上した後、刊行された[3]

関わった人物

  • 前野良沢は翻訳作業の中心であった。著者としての名は『解体新書』の本文にはなく、吉雄耕牛による序文でのみ言及されている。良沢の死の翌年(文化元年、1804年)に書かれた碑文の稿本によれば、玄白から序文の執筆を頼まれたが、良沢は長崎留学の途中で天満宮に学業成就を祈ったとき、「自分の名前を上げるために勉学するのではない」と誓ったので序文の執筆を断ったという。訳文が完全なものでないことを知っていたので、学究肌の良沢は名前を出すことを潔しとしなかったなどの推定も行われている[6][7]
  • 杉田玄白は、良沢が中心となった翻訳を『解体新書』に仕上げたとその功績を評価されている[8]。『蘭学事始』によれば玄白は「私は多病であり年もとっている。いつ死ぬかわからない」と言って、訳文に不完全なところがあることは知りながら刊行を急いだ。(しかし彼は、当時としては長命の83歳まで生きた。)『蘭学事始』は40年後に書かれた回想だが、安永2年(1773年)に書かれた書簡『和蘭医事問答』[9][10]でも『解体新書』の出版を「一番槍」として出版を急ぐことを書いている。
  • 中川淳庵は『解体新書』の巻頭に玄白の次に校閲の担当として名を連ねている。刊行後も蘭語の学習を続け、桂川甫周と共に江戸参府した博物学者カール・ツンベリーに教えを受けている[11]
  • 桂川甫三は杉田玄白と同世代の友人。法眼の地位にあり、将軍侍医を務めた。翻訳作業に直接関わった様子はないが、子の甫周を参加させた。また補助資料となる3冊のオランダ医学書を提供している[12]。『解体新書』刊行の際、幕府の禁忌に触れる可能性があったため、甫三を通じて大奥に献上されている[3]
  • 桂川甫周は甫三の長男で、後に自身も法眼となる。翻訳作業の初期から関わったという。のちに大槻玄沢とともに蘭学の発展に貢献する[13]

その他に翻訳作業に関わった者は、巻頭に名前が出てくる石川玄常、『蘭学事始』に名前が出てくる烏山松圓、桐山正哲、嶺春泰などがいる[14][15][16][17]

  • 吉雄耕牛(吉雄永章)はオランダ語通詞で、『解体新書』序文を書き、この書が良沢と玄白の力作であると賞揚している。
  • 平賀源内は、1774年(安永3年)正月に杉田玄白宅を訪問、『解体新書』の本文の翻訳がほぼ完成し、解剖図の画家を捜していることを知らされた際、小田野直武を紹介した[18]
  • 小田野直武は、秋田藩角館の藩士、秋田蘭画で著名。平賀源内の紹介で『解体新書』の図版の原画を描くことになった。『解体新書』の開版まで半年という短期間に、江戸での最初の仕事で、しかも日本学術史上記録的な仕事を成し遂げた。

『解体新書』の内容

序図(国立科学博物館の展示)
巻の一(佐賀大学地域学歴史文化研究センター所蔵)
巻の二(佐賀大学地域学歴史文化研究センター所蔵)
巻の三(佐賀大学地域学歴史文化研究センター所蔵)
巻の四(佐賀大学地域学歴史文化研究センター所蔵)

『解体新書』は一般に『ターヘル・アナトミア』の翻訳書といわれているが、それ以外にも『トンミュス解体書』『ブランカール解体書』『カスパル解体書』『コイテル解体書』『アンブル外科書解体篇』の図が採用されており和漢の説も引かれている[注 5]。また、各所に「翼按ずるに」と注釈がつけられて和漢の説も引かれている。ここに見られる「翼」は杉田玄白の本名である。単純な逐語訳ではなく、杉田玄白らの手によって再構成された医学書である。

扉絵は、『ターヘル・アナトミア』の扉とは異なる絵である。ワルエルダ『解剖書』の表紙を模写した図に、「解体図」などの語句を加えたものと20世紀の半ばから推定されてきた[19][20][注 6]

全5巻、うち「序図」の巻に序や図が採録され、本文は4巻に分かれている。それぞれの内容は以下のとおり。

  • 序図
序(吉雄耕牛)、自序(クルムス著、杉田玄白訳)、凡例、図、跋(小田野直武)
  • 巻の一
総論、形態・名称、からだの要素、骨格関節総論及び各論
  • 巻の二
神経
  • 巻の三
隔膜心臓動脈静脈門脈腸間膜乳糜管膵臓
  • 巻の四
脾臓肝臓胆嚢腎臓膀胱生殖器妊娠筋肉

なお、『ターヘル・アナトミア』には脚注があり、その量は本文とほぼ同じである。『解体新書』ではこの脚注は訳されていない[注 7]

影響・その後

『解体新書』刊行後、江戸に蘭学者の集団が形成された。日本の近代科学はこの時に始まったとも言われる。オランダ語の理解が進み、医学だけでなく、天文学、地理学など様々な分野の書籍が翻訳されるようになった[21]蘭学は、その後、京都、大坂など各地に広がった。

医学への影響としては、人体の内外を客観的に観察する医学観をもたらしたこと、漢方医学にない器官として膵臓(『解体新書』での訳語は大機里爾(大-キリイル)[注 8])や門脈などを指摘したこと、現在でも使用されている「神経」「軟骨」「頭蓋骨」などの適切な訳語を作ったこと[注 9][22]などが挙げられている[23][注 10]


こうした状況を踏まえて、『解体新書』は日本における近代科学や西洋医学の出発点などとして高く評価されているが、一方では『解体新書』の刊行は西洋医術の翻訳に過ぎず、実践的な医術へと進展する上では『解体新書』以前から解剖に熱心だった古方派の影響なども重要であり、『解体新書』のみを過大評価すべきでないとの指摘も存在する[24]

『解体新書』には誤訳も多かったため、大槻玄沢が改訳を行い、『重訂解体新書』を文政9年(1826年)に刊行した。また本書以降、解剖して描いた図として「平次郎臓図(人体解剖図巻)」天明3年(1783年)、「施薬院解男体臓図」寛政11年(1799年)、「解剖存真図」文政2年(1819年)などが刊行された。『解体新書』以前にも解剖図は描かれているが、『解体新書』以後の解剖図は西洋の解剖学と解剖図の影響が濃い[25][26][注 11]

治療に関しては18世紀末の蘭方医学は一般的には外科のみと認識されており、内科は長崎で直接オランダ人に教えられた医師以外には広まっていなかった[27]。外科の内容は、『阿蘭陀外科伝書』はオランダ通詞を通じて聞き書きした事に中国の医書の外科の部から抜き集めたり、病論を寄せ集めたようなものであったという[28]

『解体新書』の出版(1774年)に続いて、宇田川玄随『西説内科撰要』(1793年)や大槻玄沢『瘍医新書』(1822年)などの医書が翻訳・出版され、蘭方は治療へも影響力を得た。漢蘭折衷派と言われる医師も登場した。漢蘭折衷派の中で顕著な実績を残したのは、世界で初めてとされる全身麻酔手術(1804年)を成功させた華岡青洲である。蘭方はシーボルト(長崎在:1823~1828年)の臨床を含む教育などでさらに浸透した[注 12]。種痘を全国に普及(1849年より)させたのには、蘭方医の貢献が大きいとされる[29][30]

『解体新書』は九州大学医学図書館、津山洋学資料館、中津市大江医家史料館、鳥取県立図書館などに所蔵されている。岐阜県各務原市にある内藤記念くすり博物館でも展示されている[31]ほか、博物館のデジタルアーカイブから内容を閲覧することができる[注 13]

転語

『解体新書』を広く知らしめるに貢献したのは、写本のみが流通したに過ぎなかった『蘭学事始』が、明治2年(1869年)に、福沢諭吉の提案で出版されたことである。明治23年(1890年)には再版された[4]

明治期から昭和前期の小学生用の国定歴史教科書では、徳川吉宗による洋書輸入禁止の緩和や新井白石などについては触れているが、『解体新書』は言及されていない。第二次大戦後の1946年に作られた最後の国定歴史教科書『くにのあゆみ』では、8行に及ぶ『解体新書』の説明がされ、杉田玄白の肖像と『解体新書』の写真も掲載された。『くにのあゆみ』での取り扱いは、その後の小学校の社会科教科書に引き継がれた[32]

1974年は『解体新書』の出版の200周年にあたり、記念する企画が開催され記事などが書かれた[33]。この頃から様々な分野で『○○解体新書』と名乗る書籍などが登場した[34]。こうした経過を経て「○○について解説した本」として「解体新書」という言葉が使われるようになった。一般向け解説書や、漫画やアニメを研究したいわゆる謎本、テレビの知的バラエティ番組などによく使われる。例えば『所さんの20世紀解体新書』『モノづくり解体新書』『デビルマン解体新書』などである。

脚注

注釈

  1. ^ 日本語音写例:アナトーミッシェ タベレンcf. 発音の出典:wikt:en:anatomisch, wikt:en:Tabellen
  2. ^ 日本語音写例:オントレートクンディヘ ターフェレ。最後の n は黙字(発音しない表音文字)。
  3. ^ 「ターヘル・アナトミア / ターヘルアナトミア」は和製のオランダ語(和製外来語のオランダ語版)で、語構成は[ nl: tafel〈=table、机。※中期オランダ語 "tafele" の語義の一つに「list;リスト」がある〉+ anatomie〈=anatomy解剖学〉]。『解体新書』の凡例の底本の説明としては、「打係纝亜那都米」(ルビ:ターヘルアナトミイ)と書かれている。『蘭学事始』では、「ターヘル・アナトミア」と書かれている。通常は底本である蘭訳本を指す。
  4. ^ 『解体新書』の出版より少なくとも80年前に本木良意(1628-97年)がドイツのレムメリンの解剖書(のオランダ語版)を訳していた。これは公開されることなく秘蔵として関係者の間で慎重に回覧されていたが、1772年に「和蘭全躯内外分合図」として出版された。これは『解体新書』出版の2年前のことである。書籍本体には明記されていないが出版に際しては孫であり自身も多くの蘭学和訳書を執筆した本木良永が関係していた可能性がある。「和蘭全躯内外分合図」は絵図と部位の呼称を漢訳(和訳)した一覧表形式のもので、解説や学説などの箇所はない。小川鼎三は「日本で西洋解剖書が訳されたのは杉田玄白たちの『解体新書』(1774)が最初とふつう考えられているが、本木良意はほとんど一世紀を先んじて、おそらく独力で、そういう仕事をしていた」とその意義について述べている。小川鼎三「医学の歴史」中央公論社、1964年、P.102、小川鼎三「近代医学の先駆」『日本思想大系 65 洋学 下』岩波書店、1972年、P.P.481-482。;和蘭全躯内外分合図”. 京都大学貴重資料データベース (1772年). 2025年2月17日閲覧。
  5. ^ 『解体新書』の凡例では、図の引用元として5点の書籍が書かれている。しかし、この引用元を検証すると、トンミュスとブランカールは引用元の図と『解体新書』の図が一致するが、他の3点については、他の解剖書からの引用であり、凡例の記述が誤りであろうと指摘されている。(田中邦彦「『解体新書』序図引用元の検証」 岐阜医療科学大学紀要 10号 (2016年) 13-23頁
  6. ^ ワルエルダは16世紀中頃から後期にかけてのスペイン人解剖学者で、古代解剖学の権威ガレノスの説を覆すヴェザリウスの解剖学を解説する目的で同書を作成したとされる。このため書籍の内容自体はヴェザリウスファブリカ」の簡略版となっており、ラテン語版とオランダ語版がある。書物自体の著者名は示されておらず、序文の中にワルエルダの名とヴェザリウスの名があることから、ワルエルダ「人体解剖書」(1559)の図版とヴェザリウスファブリカ」の解説部分を合本して編纂したものと考えられている。阿部邦子「小田野直挿画『解体新書』附図元本調査-ワルエルダ『解剖書』」(国際教養大学アジア地域研究連携機構紀要第11号、2020)[1]。著者はヴェサリウスであるとの指摘もなされている。板野俊文、中川利孝「『解体新書』扉絵の原典とされるプランタン社発行の解剖書の著者はヴェサリウスで、ワルエルダではない」『医譚』116号、2020年 119-147頁 [2] 2025年7月28日閲覧。
  7. ^ 翻訳元の『ターヘル・アナトミア(解剖学表,1734年)』の内容は、同時代のオランダの大学の解剖学の水準に達しておらず前近代的との指摘がある(石田純郎『オランダにおける蘭学医書の形成』思文閣出版, 2007, p.73)。しかし『解体新書』では翻訳元の脚注箇所を訳していないことにより「前近代的」な解剖学より更に限定的な内容となった。たとえば、脳について、本文は形態についてのみ述べ、機能については「精神活動の道具である」とのみ書かれている。これに対し、翻訳元の脚注では約4ページにわたり脳の機能を論じている。
  8. ^ ターヘルアナトミアでは膵臓は「最も大なる集合腺」と説明されている。「大機里爾」(ダイキリイル)とはその「大」と「腺」(機里爾はオランダ語Klierの音訳)を合わせたもの。小川鼎三「解体新書」中公新書、1968年、68頁
  9. ^ 「動脈」等の語は、古くからある言葉であったが、「解体新書」では異なった意味で使用され、これが現在まで使用されている。(例:中国では「動脈」は脈搏の触れる場所を意味していた。)
  10. ^ 系統だった神経学は「解体新書」が日本に移植したものである。ただし、当時欧州では神経液流動説が支配していたこと、クルムスがこの学説に懐疑的であった等の背景から、「解体新書」の神経液説は影が薄いと評されている。小川鼎三「解体新書」中公文庫、1968、61、81-88頁。
  11. ^ 江戸時代の解剖は、1754年(宝暦4年)の山脇東洋に始まる。『解体新書』の出版以前も他の解剖の報告もあるが、医学史では『解体新書』の出版後早い時期の報告内容への関心が高い。これらの報告に『解体新書』がどう影響しているかが興味深いためである。 このため、簡略化した医学史の記述を読むと「『解体新書』が他の解剖を触発した」と誤解が生じることがある。当時の刑死体解剖の集計の一例では、1840年まで25件の報告の内、山脇東洋の最初の解剖(1754年)から、『解体新書』の出版(1774年)までの20年間に7件報告されたのに対し、その後の20年間(1775~1795年)の報告は4件に過ぎない。すなわち、「触発」したと理解するのは無理がある。(『日本医学史事典』丸善出版、2022年、428-429頁。『解体新書』出版以前の解剖については、酒井シヅ『日本の医療史』東京書籍、1982年、270-273頁)
  12. ^ シーボルトは大きな影響を日本の医学界に与えたが、その一因は蘭書を既に読み、実地の指導を希望する蘭方医の存在であると指摘されている。小川鼎三『医学の歴史』中央公論新社, 1964年, p.132
  13. ^ 『解体新書』の所蔵は、『重訂解体新書』と区別する意味で、「初版本」あるいは「安永3年本」と表記されることがある。『解体新書』の版木は再刻されてはいない。

出典

  1. ^ 石田純郎『オランダにおける蘭学医書の形成』思文閣出版、2007年、21頁。 
  2. ^ 小川鼎三「『解体新書』の時代」『解体新書:全現代語訳』酒井シヅ訳、講談社、1998年、ISBN 4-06-159341-2、234頁
  3. ^ a b c 杉田玄白 (1815年). “蘭学事始”. 早稲田大学古典籍総合データベース. 2025年2月11日閲覧。
  4. ^ a b 杉田玄白 著、芳賀徹、他 訳(現代語訳)『蘭学事始、ほか』中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年。 
  5. ^ (参考)慶應義塾大学所蔵『ターヘル・アナトミア、Ontleedkundige Tafelen』[3]、印刷博物館所蔵「ワルエルダ『人体解剖図詳解』」1579年[4]
  6. ^ 鳥井裕美子『前野良沢』思文閣出版、2015年、115-117頁。 
  7. ^ 杉本つとむ『解体新書の時代』早稲田大学出版部、1997年、291頁。 
  8. ^ 岩崎克己『前野蘭化2 解体新書の研究』平凡社、1996年、73頁。 
  9. ^ 杉田玄白、建部清庵 (1795年). “和蘭医事問答”. 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ. 2025年2月21日閲覧。
  10. ^ 杉田玄白 著、芳賀徹、他(現代文訳) 編『蘭学事始、ほか』中央公論新社、2004年、97-167頁。 ISBN 4-12-160068-1 
  11. ^ 和田新三郎『中川淳庵先生』大空社、1994年。 
  12. ^ 解体新書 凡例4丁表”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2025年7月14日閲覧。
  13. ^ 今泉源吉『蘭学の家桂川の人々』篠崎書林、1965年。 
  14. ^ 小川鼎三『解体新書ー蘭学をおこした人々』中央公論社〈中公新書〉、1968年、104-108頁。 
  15. ^ 青木歳幸『江戸時代の医学ー名医たちの300年』吉川弘文館、2012年、120-122頁。 
  16. ^ 『津軽の文化誌 V 幕末期の医学・医療事情』津軽書房、2012年、51-53頁。 
  17. ^ 松木明知「『解体新書』訳述同人の「烏山松圓」は「烏山松因」である」『日本医史学雑誌』62巻3号(2016) 315-317頁 [5]
  18. ^ 鷲尾厚『解体新書と小田野直武』翠楊社、1980年、386頁。 
  19. ^ 安江明夫「『解体新書』扉絵を巡る書誌的考察」『洋学:洋学史学会研究年報』27号 (2020年) 63-78頁
  20. ^ 印刷博物館所蔵「ワルエルダ『人体解剖図詳解』」1579年[6]
  21. ^ 謝世輝『日本近代二百年の構造』講談社〈現代新書〉、1976年、20-24頁。 
  22. ^ 酒井シヅ「近代医学への道を開いた書」『解体新書:全現代語訳』講談社、1998年、 ISBN 4-06-159341-2、3-6頁
  23. ^ 日本医史学会 編『日本医学史事典』丸善出版、2022年、430-431頁。 
  24. ^ 杉本つとむ『江戸の阿蘭陀流医師』早稲田大学出版会、2002年、16-18頁。 
  25. ^ 日本医史学会編『医史学事典』丸善出版、2022年、428-429頁
  26. ^ 木森圭一郎 (2014年). “江戸時代解剖図の展開”. 九州産業大学学術レポジトリ. 2025年5月22日閲覧。
  27. ^ 酒井シヅ、小川鼎三「『解体新書』出版以前の西洋医学の受容」『日本学士院紀要』35巻3号, 1978, 129-151頁 [7] 2025年7月27日閲覧
  28. ^ 杉田玄白『和蘭医事問答』巻之上、『日本思想史体系』64(岩波書店、1976)P.193
  29. ^ 坂井建雄『図説医学の歴史』医学書院、2019年、170-176頁。 
  30. ^ アン・ジャネッタ 著、廣川和花、木曾明子 訳『種痘伝来』岩波書店、2013年、115-117頁。 
  31. ^ もうひとつの学芸員室-ほんものの解体新書”. www.eisai.co.jp. 2024年3月21日閲覧。
  32. ^ 『日本教科書大系 19~20巻 (歴史二~三) 講談社、1963年
  33. ^ 朝日新聞クロスサーチ
  34. ^ 国立国会図書館サーチ”. 2025年3月15日閲覧。

関連文献

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