角川書店設立・私生活
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城北中学校教師を経て、1945年(昭和20年)11月に東京都板橋区小竹町で角川書店を設立した。既に岩波書店から刊行されベストセラーになっていた阿部次郎著『三太郎の日記』を合本として上梓し、成功を収めた。1948年(昭和23年)2月から1949年(昭和24年)8月まで雑誌『表現』を刊行。 1949年5月、角川文庫を創刊。文庫本の刊行形態は(今でいう出版レーベル)、戦前既に岩波書店と新潮社の二つの老舗により、開拓されていたため、新興出版社である角川書店の進出が成功するかどうか危ぶまれたが、結果として関係者が驚くほどの成果を得た。 1952年(昭和27年)6月、俳句総合誌『俳句』を創刊。1954年(昭和29年)、短歌総合誌『短歌』創刊。1955年(昭和30年)、両誌でそれぞれ新人賞角川俳句賞および角川短歌賞を設立。1967年(昭和42年)に蛇笏賞、迢空賞を設立。1961年(昭和36年)の俳人協会設立への参加、晩年は「俳句文学館」の建設などとあわせ俳壇・歌壇の興隆に尽力した。 1952年11月に発刊した『昭和文学全集』(全25巻)は、1巻あたり15万部強の記録的な売れ行きを示し、これによって文芸出版社としての角川書店の評価が確立した。社内では「角川天皇」、私生活の面では鬼源と綽名された癇癪持ちであると同時に漁色家でもあり、自らの家庭を顧みずに複数の愛人を作って私生児を産ませるなど奔放な生き方を貫いた。長男・角川春樹は、父に対しての反逆心が出発点だったと「私の履歴書」ほかで述べている。 1961年、「語り物文芸の発生」で文学博士(國學院大學)。1972年(昭和47年)、『雉子の聲』で第20回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞する。1975年、東京女子医科大学病院において58歳で急死。戒名は浄華院釈義諦。1979年(昭和54年)に角川源義賞が発足した。
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