装束の構成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 05:40 UTC 版)
直衣は元来烏帽子にあわせた略装のようで、石帯を締めないで、絹帯を締める着装をした。古い直衣姿は伊豆山神社の神像や、MOA美術館所蔵の彩絵唐櫃により知られる。 直衣装束の構成は、下着を着て下袴、指貫をはき、単、衣、直衣を着る。衣《きぬ》は束帯の衵《あこめ》に相当するが、それより長く仕立てたという説もある。なお、立烏帽子をかぶり、扇を持つ。原則的には直衣姿での参内は認められないが、特別な勅許を得た臣下は参内できた。この時は、立烏帽子ではなく冠をかぶった(この形を冠直衣という)。冠直衣は参内に限るものではなく、仏事や他家の元服への参列など、晴れのときに着用した。 中世に入ると、狩衣が上流貴族にまで用いられはじめたため、烏帽子直衣は衰退、烏帽子直衣は院の御所に、上皇の許しを受けた者が参入する時に使用することが普通になった。 鎌倉時代には検非違使別当が自らの家での検非違使庁の仕事時に使用したり、勧修寺流藤原氏当主が一族の法華八講に出るときなど、古くからの慣例故実のある場合のほかは、もっぱら大臣クラスが烏帽子直衣を着るという通念が生まれる。 直衣は普通下襲の裾を引かないが、10世紀頃までは、直衣の下に下襲を重ね、石帯を締める「直衣布袴」がさかんに用いられた。このときは冠をつけ、指貫をはく。また、下襲を着て石帯は使用しない略装もあったことが『源氏物語』(鈴虫)に見える。 11世紀頃の記録には、直衣・下襲・表袴・石帯を用いた「直衣束帯」が見える。これはもっぱら元服の時に高貴な人の子息が使用しているが、平安末期以降の所用例は見えない。 直衣布袴も室町時代中期に足利義持が紅梅直衣を使用したのを最後に(この例自体が多分に尚古趣味によるものであった)ほとんど例を絶ち、近世には桜町上皇が仏事に使用した記事(通兄公記)などが知られるのみである。 近世では、衣冠・直衣・狩衣について正式には単や衣を重ねたものの、小袖に直接これらの上着を着ることも行われ、また指貫に代えて指袴(指貫と同じ生地の切袴)も用いた。下袴は室町末期に至っても親王元服などの記録に見られるが、江戸初期には一旦衰退し、江戸中期以降、単などを重ねる正式な着装に限り使用した。
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