薬史学者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/09 23:34 UTC 版)
藤太郎は1942年(昭和17年)に帝国学士院日本科学史編纂嘱託となり、紀元2600年記念事業として編纂された『明治前日本薬物学史』(1955年、朝比奈泰彦監修、日本学士院)の第1巻に「薬物需給史」の執筆を担当。1948年から1951年(昭和23-26年)には正倉院薬物調査に加わり、『正倉院薬物』(1955年、朝比奈泰彦監修、植物文献刊行会)に「正倉院薬物の史的および商品学的考察」を執筆。 藤太郎の学位論文となった1949年(昭和24年)発行の『日本薬学史』(南山堂)は不朽の名作と評価されており、朝比奈泰彦は本書の序文で以下のように称賛している。 史として従来あり勝ちな政府並びに支配階級のみを中心とする記録の年代的羅列を超越し、経済的生業としての薬業の発展に論及して居ることは後進を裨益すること多大である。 — 『日本薬学史』の序(朝比奈泰彦)より一部引用 学位論文(薬学博士)としては「日本薬学史」が東京大学に 1951年3月受理されている。 1954年(昭和29年)には、朝比奈泰彦、木村雄四郎らとともに日本薬史学会を設立し、運営に携わりながら多くの発表を行った。1971年(昭和46年)にプラハで開催された国際薬史学会に日本代表として参加し、オランダにある国際薬史学アカデミーから「薬学の歴史に最も精通している人」として「万国薬史学アカデミー章」を授与された。 また、日本薬局方草案の起草など日本の薬事行政に貢献したアントン・ヨハネス・ゲールツを長年顕彰し、現在、墓碑は藤太郎が元会長であった神奈川県薬剤師会が管理している。 晩年は、日本で初めて常設の薬の資料館となる内藤記念くすり博物館の企画、運営に協力し、また、「平安堂文庫」として藤太郎が生涯収集した本草書や古医書などの蔵書のほとんど(和書3,230部、洋書647部、雑誌類数千部)を同博物館に寄贈した。 1975年(昭和50年)6月30日に朝比奈泰彦が没し、藤太郎は空席となった日本薬史学会の2代目会長に就任する予定となっていたが、翌1976年(昭和51年)3月1日心不全のため横浜赤十字病院にて逝去。享年89。
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