薄情な母親という神話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 01:20 UTC 版)
「フランセス・ブランドン」の記事における「薄情な母親という神話」の解説
フランセスはテューダー朝時代の女性の中で、最もいわれのない中傷にさらされた一人である。娘のジェーン・グレイが数百年にわたって無実かつ純粋無垢な存在として美化されたのに対し、フランセスは娘を美化させるためにネガティブな表象を引き受けさせられた。彼女は貪欲で粗野な女性とされ、娘を虐待し、暴力に物を言わせて娘に結婚を強制したという事実無根の非難にさらされた。こうした中傷を元にしたイメージはさらに恣意的に引用され、ジェーンは結婚をめぐり両親に殴打されたという改竄された物語を生み出した。現代の作家たちさえもこのような事実無根の改竄された神話を引用し、神話は小説や歴史書の中に繰り返し登場している。イギリスの歴史作家アリソン・ウィアー(英語版)は小説 "Innocent Traitor - Lady Jane Grey"(2007年刊)の中で、フランセスを娘ジェーンを虐待する残酷で欲深い母親として描いた。シルヴィア・ユーレヴィッツ=フライシュミット(Sylvia Jurewitz-Freischmidt)の小説 "Kampf der Königinnen"(2011年刊)はジェーンの結婚をめぐる黒い神話をさらに拡大し、事態に驚いた女家庭教師が引き離すまで、両親が一緒になって娘を殴り続けたという描写をしている。 ジェーンが両親に虐待を受けたという根拠として唯一採用できそうな証言は、グレイ家訪問から20年を経て書かれたロジャー・アスカムのものである。しかし歴史家の一致した見解によれば、ジェーンが両親から受けた躾は、テューダー朝時代の他の貴族の子女たちのそれと何ら変わらないものだった。アメリカ合衆国の歴史作家スーザン・ヒギンボーサム(英語版)は、例え後にアスカムがスキャンダラスな虐待を匂わせる記述を残したとしても、アスカムがグレイ家訪問直後に書いたジェーンの両親を称賛する内容の手紙は見過ごされるべきではない、と主張した。仮にもしジェーンが体罰を受け抑圧されていたとしても、それはジェーンが両親の権威に従わず頻繁に反抗したためだろう。こうした想像に対する史料上の証拠としては、メアリー女王に宛てたジェーン自身の手紙で、ジェーンは自分と母親との間には何のわだかまりもない、と述べたことが挙げられる。またジェーンは結婚後も、姑と衝突した際、母フランセスに救いを求めてきている。 フランセスはまた、ジェーン擁立計画が失敗に終わった後、夫の恩赦は願い出た一方で、娘については一度も助命嘆願をしなかったと非難された。その証拠として引き合いに出されるのが、ヘンリー・グレイが恩赦を受けたのに対し、ジェーンがロンドン塔に閉じ込められたままだったことである。しかしヘンリー・グレイは娘ジェーンと違い、メアリー1世を敵視する宣言に署名しなかったし、命が危ぶまれるような重病に罹ってもいた。ジェーンの母フランセスに宛てた手紙は現存しないが、ミケランジェロ・フローリオは、ジェーンが幽閉された塔の中から母親に手紙を送ったと報告している。ジェーンとヘンリー・グレイが処刑された後、フランセスはエイドリアン・ストークスと再婚した。フランセスの黒い神話では、この再婚はヘンリー・グレイの死から3週間後のことだったと主張され、彼女の節操のなさと薄情さの根拠として喧伝された。実際には、ストークスとの再婚はグレイの処刑から1年程度たった頃のことだった。また、ストークスはフランセスより15歳年下だったという虚構(実際には2歳年下)も、同様にフランセスの人格を卑しめるために利用された。 フランセスの墓碑銘には3人の娘ジェーン、キャサリンおよびメアリーの名前が言及されていない。これは長い間、母と娘たちの関係が険悪だったためだと解釈されてきた。しかし彼女の墓碑は1563年、2番目の夫エイドリアン・ストークスの注文で作られたものである。この当時、フランセスの次女キャサリン・グレイはハートフォード伯との秘密結婚が明るみに出てエリザベス女王の怒りに触れ、女王に王位継承権を否認されてロンドン塔に収監中の身だった。ストークスはこれ以上エリザベス女王を刺激しないように、問題視されそうなフランセスの娘たちの名前を刻まなかったと考えるのが妥当である。
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