若手、中堅議員時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 若手、中堅議員時代の意味・解説 

若手、中堅議員時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:08 UTC 版)

小沢一郎」の記事における「若手、中堅議員時代」の解説

1969年昭和44年)、父・佐重喜急死に伴い第32回衆議院選挙に旧岩手2区から自由民主党公認立候補し27歳若さ当選した。この総選挙党幹事長として指揮したのが田中角栄で、佐藤栄作田中角栄派(周山会七日会木曜クラブ)に所属し田中薫陶受けた。なお小沢は、田中角栄内閣において1期生ながらも「田中秘蔵っ子」として力を振るったこの頃内の若手議員世話をしていたのが、当時中堅議員だった金丸信であり、後々まで続く師弟関係始まりとなった当時大学紛争激しく田中肝煎り大学運営臨時措置法案が政局焦点となったような世情であり、また紛争時代大学院在籍した代議士当時希少であったこともあり、当初小沢文教族目指していた。なお、初当選間もない頃に甲状腺癌患い一時は声が出なくなり政界引退考えたというが、手術完治している。 衆院議員2期目だった1973年田中角栄後援をしていた新潟県建設会社福田組会長福田正の長女である和子結婚した1982年昭和57年)に自民党総務局長(現在でいう選挙対策委員長)に就任する1983年昭和58年)の第13回参議院選挙で(初の厳正拘束名簿式比例区での順位付け担当した際、「現職優先」を主張した中曽根らに対し党員党友集め具合後援会規模などのデータ駆使し20以内新人を9人送り込む筋論押し通したその後行われた京都2区2人欠員による衆院補選際し執行部内では2人擁立避けて1人擁立留める意見大勢占めていたが、小沢2人擁立論を主張谷垣禎一野中広務新人2人擁立し絶妙な割り2人とも当選首相中曽根に「まるで名医の手術を見ているようだ」と絶賛された。 その後衆議院議院運営委員長を務める。当時衆議院議員運営委員長を退任した後には入閣することが慣例化していた。しかし退任入閣できず、齟齬をきたす。これは田中中曽根入閣させないよう働きかけたものと見られている。この騒動の後、1985年昭和60年)に第2次中曽根改造内閣自治大臣兼国公安委員会委員長として初入閣した。当時43歳だったが、初当選から16年経ており、同期当選者の中では比較的遅い入閣だった。同年木曜クラブ領袖として影響力保持していた田中反旗を翻した竹下登金丸信と共に派内勉強会創政会」を結成し2年後1987年昭和62年)に経世会として独立した

※この「若手、中堅議員時代」の解説は、「小沢一郎」の解説の一部です。
「若手、中堅議員時代」を含む「小沢一郎」の記事については、「小沢一郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「若手、中堅議員時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「若手、中堅議員時代」の関連用語

若手、中堅議員時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



若手、中堅議員時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの小沢一郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS