若手、中堅議員時代
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1969年(昭和44年)、父・佐重喜の急死に伴い、第32回衆議院選挙に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、佐藤栄作→田中角栄派(周山会→七日会・木曜クラブ)に所属し、田中の薫陶を受けた。なお小沢は、田中角栄内閣において1期生ながらも「田中の秘蔵っ子」として力を振るった。この頃派内の若手議員の世話をしていたのが、当時中堅議員だった金丸信であり、後々まで続く師弟関係の始まりとなった。当時は大学紛争が激しく、田中の肝煎りの大学運営臨時措置法案が政局の焦点となったような世情であり、また紛争時代の大学院に在籍した代議士は当時希少であったこともあり、当初の小沢は文教族を目指していた。なお、初当選間もない頃に甲状腺癌を患い、一時は声が出なくなり政界引退も考えたというが、手術で完治している。 衆院議員2期目だった1973年に田中角栄の後援をしていた新潟県の建設会社福田組会長・福田正の長女である和子と結婚した。1982年(昭和57年)に自民党総務局長(現在でいう選挙対策委員長)に就任する。1983年(昭和58年)の第13回参議院選挙で(初の厳正拘束名簿式)比例区での順位付けを担当した際、「現職優先」を主張した中曽根らに対し、党員党友の集め具合や後援会の規模などのデータを駆使し、20位以内に新人を9人送り込む筋論を押し通した。その後に行われた旧京都2区の2人欠員による衆院補選に際し、執行部内では2人擁立を避けて1人擁立に留める意見が大勢を占めていたが、小沢は 2人擁立論を主張、谷垣禎一と野中広務の新人2人を擁立し、絶妙な票割りで2人とも当選。首相の中曽根に「まるで名医の手術を見ているようだ」と絶賛された。 その後、衆議院議院運営委員長を務める。当時は衆議院議員運営委員長を退任した後には入閣することが慣例化していた。しかし退任後入閣できず、齟齬をきたす。これは田中が中曽根に入閣させないよう働きかけたものと見られている。この騒動の後、1985年(昭和60年)に第2次中曽根再改造内閣で自治大臣兼国家公安委員会委員長として初入閣した。当時43歳だったが、初当選から16年を経ており、同期当選者の中では比較的遅い入閣だった。同年、木曜クラブの領袖として影響力を保持していた田中に反旗を翻した竹下登、金丸信らと共に派内勉強会「創政会」を結成し、2年後の1987年(昭和62年)に経世会として独立した。
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