聖マリア塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 16:24 UTC 版)
聖マリア塔は、島で最も目に付く建造物である。1416年に遡る背景を持っており、当時マルタ人らがアラゴン王アルフォンソ5世に、敵の侵攻を早くに予告するため使う塔の建設を請願したのだった。略奪を重ねるトルコ人、海賊、密輸業者、イスラーム海賊らがコミノ島を隠れ家や、マルタ島とゴゾ島への恐ろしい出撃の足がかりにするのを防ぐ目的があった。2年後、王は塔の建設計画のために資金を集めるべく輸入ワインに特別税を課した。しかし、王の金庫に入る金は他へ転用されてしまった。島はその後200年間、無防備なままでおかれたのだった。 最終的に1618年になって、総長アロフ・ド・ウィニャクール時代のマルタ騎士団が聖マリア塔(マルタ語でit-Torri ta' Santa Marija)を、おおよそ島南岸の中央部に建てた。塔は、ウィニャクール塔、ラスカリス塔、ド・ルダン塔(建てられた当時の総長の名前が付けられた)らマルタ諸島沿岸部一連の防御塔の一つとして形成されている。マルタ諸島の海岸線沿いの有利な位置にあり、マルタ島とゴゾ島間の通信を大いに改善した。塔は巨大で、4つの角には動楼のある四角い建物で、海面からおよそ80メートルの場所にある。塔本体の高さはおよそ12メートル、大体6メートルの厚さの壁で覆われている。およそ8メートルの高さの台座と高台の上に建っている。 1798年から1800年にかけてフランスに海上封鎖された間、聖マリア塔はスパイ容疑の囚人を収容する場所に使われていた。1829年、新たなマルタの支配者イギリスはこの塔を使用せず放置した。数十年の間、軍人でない地元有力者らの資産とみなされていた。その間には隔離病院として使われたり、家畜の冬季用檻にすら使われていたのだった。第一次世界大戦と第二次世界大戦には、再び塔が元の目的で使われることになった。1982年、塔はマルタ軍の所有となった。現在は、密輸品に対する監視のための足場、海上での渡り鳥の密猟を監視する監視所となっている。 聖マリア塔は、2002年から2004年の間広範囲に渡る修繕が施された。今日、コミノで最も名の知られた建物として残り、島内を散策する観光客の目的地となっている。
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