義勇軍とミュンヘン一揆
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「ヘルマン・クリーベル」の記事における「義勇軍とミュンヘン一揆」の解説
1919年以後、ミュンヘン・レーテ共和国崩壊後に設立されたバイエルン民兵団の活動に関与するようになる。民兵団から反ボリシェヴィキ的義勇軍が成立する。1919年10月よりバイエルン民兵団協会の参謀長となり、1920年3月のバイエルン州首相ヨハネス・ホフマンの辞任に関与した。1920年3月にはエッシャリッヒ団参謀長になるが、1922年にゲオルク・エッシャリッヒと訣別し、民兵組織を通じてアドルフ・ヒトラーと接触を持つようになった。ヒトラーとの仲介役であるエルンスト・レームの主導により、1923年2月に祖国戦闘団協会が設立され、クリーベルはその軍事組織の指導者となった。 義勇兵組織に政治性を持たせたいヒトラーは、クリーベル率いる軍事組織の扱いに苦慮した。レーム率いる突撃隊やクリーベルの義勇軍、そして軍部への影響力を失うことを恐れた。一方バイエルン州首相オイゲン・フォン・クニリングは左派同様、クリーベル率いる右派軍事組織を危険視するようになり、1922年に制定された共和国防護法をバイエルンにも適用することを決定した。以後クリーベルはクーデターを起こして「ベルリンに進軍」することを主張するようになる。ヒトラーらが計画した左派によるメーデー集会打倒が軍部の反対で取りやめになると、クリーベルはヒトラーの優柔不断を批判し行動を要求した。クリーベルは10月にバイエルンの北部州境を守るよう動員令を発し、内戦に備えた。これは表向きテューリンゲン州のアウグスト・フレーリッヒ (de:August Frölich)率いる左派政権に対するものだったが、事実上バイエルン州内の政敵に対する圧力であった。 1923年9月、民兵団からドイツ闘争連盟 (Kampfbund) が組織され、クリーベルが軍事指導者となった。ヒトラーはその政治指導者に就任した。クリーベルはヒトラー、ルーデンドルフらと共にミュンヘン一揆を計画し、最後の会議はクリーベルの自宅で行われた。11月9日、一揆はミュンヘン市内のフェルトヘルンハレに向かい行進を開始した。政治独裁を目指すヒトラーと違い、クリーベルやルーデンドルフらは反共・反社会主義の保守的な軍事政権樹立を目指していた。クリーベルにとってヒトラーは宣伝役に過ぎなかったのである。しかし一揆は失敗し、ルーデンドルフやヒトラーは逮捕された。クリーベルは逃亡したが、1924年1月に自首した。 1924年2月の裁判でクリーベルらは国家反逆罪で起訴され、4月の判決ではルーデンドルフはかつての戦功に免じて無罪、ヒトラーやクリーベルらは懲役5年の軽い判決が下され、ランツベルク刑務所に収容された。クリーベルは1924年5月の国会議会選挙にナチ党が禁止されたのちに結成された国家社会主義自由運動から出馬して当選したが、獄中のため議員になることはできなかった。クリーベルやヒトラーに対してはすぐに恩赦が検討され、10月に釈放されることになったが、ヒトラーが母国オーストリアへの国外追放を拒否したため12月に延期になった。 釈放後のクリーベルはヒトラーの要請によりナチ党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』の軍事面を担当していたが、1926年に荘園管理人としてケルンテン州に隠棲した。しかしその地でも義勇軍活動に関わっていた。
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