羊毛の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 22:47 UTC 版)
「en:Sheep shearing」も参照 毛の利用については、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}現代[いつ?]のヒツジと最初期のヒツジとでは様相が大きく異なる。 野生のヒツジの毛(フリース)は2層になっている。外側を太く粗く長い「上毛(粗毛、ケンプ)」に覆われ、肌に近い内側に産毛のような短く柔らかく細い「下毛(緬毛、ウール)」がわずかに生えている。最初期のヒツジの緬毛(ウール)は未発達で、利用されていなかった。一方、野生のヒツジは春に上毛(ケンプ)が抜ける(換毛)性質があり、紀元前から人類は、この抜け落ちた上毛(ケンプ)によってフェルトを作っていたらしい。現在われわれが通常に羊毛(ウール)として親しんでいるのは、主にこの下毛を発達させるように品種改良された家畜用ヒツジの毛である。現代の家畜化されたヒツジは換毛しない。 家畜化されたヒツジは改良によって、上毛(ケンプ)を退行させる代わりに、ヘアー(適当な訳語がない)と呼ばれる中間毛と緬毛(ウール)を発達させた。紀元前4000年ごろにはヘアータイプやウールタイプのヒツジが分化している。紀元前2000年ごろのバビロニアはウールと穀物と植物油の三大産物によって繁栄した。バビロンの名は「ウールの国」の意味であるとする研究者もいる。 野生タイプのヒツジの上毛(ケンプ)は黒色、赤褐色や褐色であったが、改良によってヘアーやウールタイプのヒツジからは淡色や白色の毛が得られ、染料技術と共にメソポタミアからエジプトに伝播し、彩色された絨毯は重要な交易品となった。紀元前1500年頃から、地中海に現れたフェニキア人によって白いウールタイプのヒツジがコーカサス地方やイベリア半島に持ち込まれた。コーカサス地方のヒツジは、のちにギリシア人によって再発見され、黄金羊伝説となった。このヒツジはローマ時代には柔らかく細く長く白いウールを生むタランティーネ種へ改良された。ローマ人が着用した衣服はウールの織物である。一方、イベリア半島では、すでに土着していたウールタイプのヒツジとタランティーネ種の交配による改良によって、更なる改良が続けられ、1300年頃のカスティーリャで現在のメリノ種が登場した。 理想的なウールだけを産するメリノ種は毛織物産業を通じてスペインの黄金時代を支えた。メリノ種はスペイン王家が国費を投じて飼育し、数頭が海外の王家へ外交の手段として贈呈される以外は門外不出とされた。これを犯した者は死罪だった。18世紀になるとスペインの戦乱にヨーロッパの列国が介入し、メリノ種が戦利品として持ち去られて流出、羊毛生産におけるスペインの優位性が喪失された。イギリスでは羊毛の織物と蒸気機関を組み合わせた新産業が興った。1796年、南アフリカ経由で13頭のメリノ種がオーストラリアに輸入された。このうちの3頭が現在のオーストラリアのメリノ種の始祖になったと伝えられている。この羊を買い取ったニュー・サウス・ウェールズ州のジョン・マッカーサーはヒツジの改良に努め、オーストラリアの羊毛産業の基礎を築いた。
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