織田氏との同盟破棄・信長との決別
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「毛利輝元」の記事における「織田氏との同盟破棄・信長との決別」の解説
天正4年(1576年)2月、将軍・足利義昭が紀伊国の畠山領を経て、毛利氏領国の備後・鞆に動座してきた。同月8日には義昭は元春に命じて、輝元に幕府の復興を依頼した。だが、この動座は毛利氏に何一つ連絡なく行われたものであって、信長との同盟関係上、義昭の動座は避けなければならない事態であり、輝元はその対応に苦慮した。 輝元と信長は先の軍事衝突後、同盟を維持する方向で話を進めていた。ところが、信長は播磨に逃れた浦上宗景を庇護して軍事支援を行い、先の衝突では浦上氏・三村氏の支援に消極的だったにもかかわらず、一転して方針を転換させ、毛利氏との軍事対決も辞さない態度を示した。また、先の衝突が信長の予想に反して早期決着したため、信長は毛利氏と宇喜多氏の同盟を警戒するようになっていた。さらに、天正3年以降、信長は毛利氏への包囲網を構築するため、近衛前久を九州に下向させ、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図ろうとしていた。 輝元と信長の関係は悪化していたとはいえ、表面上両者の同盟関係は継続されており、毛利氏が義昭を受け入れないことは信長とも約束されていたことで、それを破ることは重大な背信行為であった。だが、義昭の下向は先の衝突以降、浦上氏の領国という緩衝地帯がなくなった両者の軍事的緊張が高まっていた中で、決定的な亀裂を生じさせた。義昭自身は信長が宗景に備前・播磨・美作の統治を認める朱印状を出したことや、宗景が播磨へ逃亡して以降の対応から、信長の輝元に対する「逆心」は明確であると述べており、同盟は既に破綻していると考えていた。 輝元は信長と義昭との間に揺れ動いた末、4月に義昭の要請に応じ、5月7日には反信長として立ち上がり、13日に領国の諸将に義昭の命令を受けることを通達し、西国・東国の大名らにも支援を求めた。これにより、輝元は信長との関係を断ち、織田氏との同盟も破棄することとなった。輝元自身も信長の領国への介入から疑心に駆り立てられ、信長との関係修復が困難であると判断したと考えられている。 輝元ら毛利氏に庇護されていたこの時期の室町幕府は、「鞆幕府」とも呼称される。義昭を筆頭とする鞆幕府は、かつての奉公衆など幕臣や織田氏と敵対して追われた大名の子弟らが集結し、総勢100名以上から構成されていた。 輝元自身も鞆幕府において、義昭から将軍に次ぐ地位たる副将軍に任じられている。また、輝元は副将軍として義昭を庇護することにより、毛利軍を公儀の軍隊の中核として位置づけ、西国の諸大名の上意に君臨する正統性を確保した。また、義昭は鞆に滞在中、輝元に足利氏の家紋たる桐紋を与えている。
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