縄文・弥生・江戸・明治時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 00:01 UTC 版)
「本駒込」の記事における「縄文・弥生・江戸・明治時代」の解説
本駒込五丁目と豊島区駒込一丁目との境で発見された、駒込一丁目遺跡からは、弥生時代後期の遺跡が発見されている。これまで20軒を超える竪穴式住居が発掘されている。同じく、本駒込五丁目の駒込富士神社の境内にある駒込富士は前方後円墳の古墳といわれている。全国古墳編年集成では500年代末の前方後円墳とされている。 本駒込三丁目の動坂遺跡は縄文時代の遺跡の上に江戸時代の遺構が発見された珍しい場所である。縄文遺跡は縄文中期の住居跡と土器だった。近くの西ヶ原でも旧石器時代の出土品や縄文時代の集落跡が見つかっている。江戸時代の遺跡は、8代将軍徳川吉宗の鷹匠の屋敷跡だった。現:都立駒込病院には動坂貝塚記念碑がある。本駒込および文京・豊島周辺エリアは東京圏の歴史学上、非常に興味深いエリアともいえる。 駒込は日本武尊がその昔、東夷征伐の折、この界隈から軍馬を集めたところ、たちどころに千頭以上の軍馬が集まり、この様を見て「駒混みたり」と評され、素盞烏山(いるさやま)を「駒込林」と唱えたことから農民が住むようになり駒込村となる、との説があり、ルーツは日本の歴史の原点までさかのぼる。 本郷通りは江戸時代、日光御成道とも呼ばれ、徳川将軍家が日光東照宮に参拝する道として決められていた。本郷通りと上富士前交差点で交わる不忍通りが開通したのは明治以降。 本駒込三丁目には、明暦の大火と江戸大火によって移転してきた諏訪山吉祥寺があり、武蔵野市の吉祥寺の由来である。現在の吉祥寺は、諏訪山吉祥寺の門前で商売をしていた商人たちが武蔵野へ移り住んで興した町で、吉祥寺には寺が存在しない。幕末に幕臣として最後まで抵抗を続け、その後新政府の外交官・閣僚を歴任した榎本武揚の墓がある。 江戸時代(現:本駒込五丁目・駒込一丁目)にかけた場所は、旗本の本郷丹後守の屋敷跡で、1869年に維新の三傑木戸孝允が別宅とした。木戸が晩年病になり養生しているところへ明治天皇が2度に亙って見舞っている。戦前までは聖跡に指定され、行幸の碑がある。付近には木戸坂という坂がある。 今の街が形成された江戸・明治から時代を遡ってみると、駒込の地名は多数歴史に登場している。 駒込には富士講、鷹匠屋敷、名産の駒込茄子があり、江戸っ子の間で「駒込は一富士二鷹三茄子」と縁起の良い土地として語られた。
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