細胞説の成立へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/01 14:25 UTC 版)
こうして次第に細胞という存在とそのあり方が注目されるようになる。特にプルキニュとその一派は細胞説にごく近づいていた。彼は動物の上皮組織と植物の柔組織の類似に注目し、また、動物の組織が液体・繊維と小球から成り立つと述べた。この小球が細胞である。ただし同時に細胞膜の厚さの違い(植物の細胞壁)などからそれらを同一と見なすことに難を感じていたようである。 そういった中から、上記(概説)のようにシュライデンとシュワンが細胞説の提唱者と呼ばれるようになった。シュライデンは彼の著書『植物発生論』で、シュワンは『動物および植物の構造と成長の一致に関する顕微鏡的研究』で、この考えを公表した。彼らは一年の差でこれを述べたと伝えられるが、彼らはそれぞれ独立にこれにたどり着いたわけではない。実はその寸前、1837年10月に二人は会食しており、ここで二人はこの問題について意見を交換している。この時、シュライデンは自身の観察した植物細胞の核の存在と、その役割について論じた。シュワンはこれを聞いて、自分が観察したカエル幼生の脊索の細胞で核を見たことを思い出し、二人はシュワンの研究室でこれを確認したという。したがって、彼らはそれぞれ植物と動物に関する細胞説を提唱したが、彼らはそれが動物と植物に共通する、言い換えると生物一般の特徴であることを認識していた。その点はシュライデンのそれの表題からも読み取れる。 シュライデンによると、細胞は植物の体の構成要素であるが、それだけではなく、核小体を含む核を(少なくとも若い間は)そなえ、成長し、それ自体が小さな生命体である。シュワンも、シュライデンの細胞観をほぼ踏襲している。ただし、細胞の起源については、二人とも現在とは異なる説明をしている。シュライデンは元の細胞の中で、核を中心として小体ができ、これが新しい細胞の元、細胞芽となるとしている。シュワンは、むしろ細胞間物質から細胞が作られるのだと述べている。いずれにせよ、この細胞の起源の説明は、彼らの細胞説の大きな部分であり、この点ではどちらも変ではある。 これに前後して、デュジャルダン(F. Dujardin)は原生動物の体内の粘性物質を生命の特質を表すものと見なし、これにsarcodeの名を与えた。またモールは同様の物質を植物細胞にも認め、これに原形質 protoplasmという名を与えた。これに対してドイツのシュルツェ(M. Schultze) はこの両者を同じものであるとして改めてこれを原形質と呼ぶことを提唱(1861)、ここから生命の単位である細胞は「原形質の塊」であるとの定義を与えた。この見方は電子顕微鏡などによって原形質が複雑な複数の構造を持つものであることが明らかになるまで広く浸透していた。 なお、細胞分裂はデュモルティエ(B. Ch. Dumortier 1797-1878)が藻類で最初に発見(1832)、モールは葉の細胞で観察している(1838)が、シュライデンもシュワンもこの現象を重視しなかったようである。
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