紙芝居時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:50 UTC 版)
先の募金旅行で辿り着いた神戸市の安宿の主人から「この建物をアパートとして買ってもらえんやろか」と購入を持ちかけられた。抵当が付いていたが格安の値段だったので、輪タク業など今までの事業で貯めた資金と足りない分は父に借金して購入した。このアパートが神戸市兵庫区水木通にあった事から「水木荘」と名付け、大家業を始めた。勝手が分からず不動産屋に頼んで募集の広告を掲載した所、水木と同じ変わり者ばかりが入居して家賃収入は捗捗しくなかった。大家業が軌道に乗らず副業を探した29歳の時に紙芝居作家の弟子をしている青年がアパートに入居した。一度は諦めた絵に対する熱意から、その青年にいくつか紹介してもらった紙芝居の貸元に手製の紙芝居を持ち込んで回った。水木曰く「内容がゲイジュツ的」だった為か評価は今ひとつだったが、林画劇社という貸元で演じ手の纏め役をしていた活弁士の鈴木勝丸が水木の作品を気に入り、同社の紙芝居作家として採用された。夢にまで見た絵に係る仕事に付いたが、紙芝居業は貸元も零細企業で代金の支払いは滞りがちであった。暫くして鈴木が林画劇社から独立して自身の貸元「阪神画劇社」を設立すると水木も引き抜かれて専属作家になった。鈴木が水木の本名(武良茂)を覚えてくれず「水木さん」と間違って呼ぶため、そのまま「水木しげる」をペンネームにした。鈴木の紹介で知り合った人気の紙芝居作家加太こうじの助手なども務めながら紙芝居を描く日々が続いた。 1953年、アパート経営に行き詰まり大家業から手を引き、水木荘を売却して借金を精算。直後に西宮へ引っ越した。BC級戦犯で巣鴨プリズンに拘留されていた兄・宗平が出所したので一家で同居する。紙芝居の専業作家として作品作りに没頭し、少しずつノウハウを掴んで「空手鬼太郎」「河童の三平」など後年の活躍に繋がる作品を制作した。しかしテレビや貸本漫画など他の娯楽に押されて紙芝居業界は急速に衰退していった。紙芝居に見切りを付けて漫画家への更なる転身を決め、1957年に上京して貸本の版元に持ち込みを行った。同じく紙芝居から離れた加太こうじの推薦もあり、兎月書房という小さな出版社から別の作家が書き残した「赤電話」という漫画を完成させる仕事を受注した。 この仕事を無事に終え、1958年に正式なデビュー作として『ロケットマン』を出版し、35歳で貸本漫画家となった。
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