紙芝居全盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 22:28 UTC 版)
東京都荒川区東日暮里で、紙芝居師の父・森下貞三のもとに誕生した。当初の職業は菓子工場員だった。戦中は出征、戦後は4年間のシベリア抑留を経て、1949年(昭和24年)に帰国した。第二次世界大戦の空襲で職場が失われたため、父の指導を受けた後、1950年(昭和25年)、父の家業を継いで紙芝居を始めた。シベリア抑留中に、父の紙芝居を真似て語った講談が周囲に喜ばれ、人の笑顔が見られる仕事がしたかったという思いも、紙芝居師を継いだ理由の一つだった。 やむを得ない事情で始めた仕事ではあったが、生来の子供好きな性格により、天職となった。菓子工場の経験を生かし、街頭紙芝居につきものの駄菓子にも工夫を凝らし、子供たちの好評を得た。紙芝居を見る子供たちの間では、駄菓子を買わずに見ることがご法度とされることもあったが、森下は菓子を買わずに見る子供を怒ることをせず、どんな子供にも紙芝居を楽しませる姿勢を心がけた。1952年(昭和27年)には、第1回紙芝居コンクールで優勝(特選)を果たした。 森下の紙芝居は、滑らかな口調で子供たちの支持を得られ、得意の題目は『黄金バット』であった。当時は日本全国に紙芝居師があふれており、荒川だけで200人、日本全国で3500人の紙芝居師がいた。収入面においては、日雇い労働者への定額日給が240円であったことから「ニコヨン」と通称されていた時代にあって、紙芝居はその倍近くの収入が得られ、紙芝居の全盛期であった。
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