精力善用国民体育に対する空手界からの主張とは? わかりやすく解説

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精力善用国民体育に対する空手界からの主張

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 18:09 UTC 版)

講道館」の記事における「精力善用国民体育に対する空手界からの主張」の解説

また、この形に使用されている当身技、特に単独動作当身技については、嘉納治五郎唐手(のちの空手研究の成果よるものとの空手界からの指摘がある。 1922年大正11年5月船越義珍文部省主催第一回体育展覧会唐手紹介するために上京してくる。その第一回体育展覧会における唐手演武実現船越からの頼み込みを受け、その同郷先輩であった東京高等師範学校教授金城三郎懇願通して当時大日本体育協会名誉会長として本大会主催者であり東京高等師範学校学校長であった嘉納治五郎斡旋により実現したものであった同年6月嘉納船越講道館招待して唐手演武参観した。その際全ての演武終了すると、嘉納師範席から立ち上がり「形」の運足法や組手形要領について鋭い質問した当時講道館には柔術拳法家系流派出の専門家も沢山おり質問専門的なものであった船越と共に唐手演武行った儀間真謹は嘉納質問鋭さ具体性舌を巻その際緊張感について述懐している。 嘉納唐手興味をもったきっかけは、1908年明治41年)、沖縄県中学校生徒京都武徳会青年大会において、武徳会希望により唐手の型を披露としたときであったとされ、このとき「嘉納博士も片唾を呑んで注視してゐた」という。 また、1911年明治44年)、沖縄県師範学校唐手部の生徒6名が修学旅行上京した際、嘉納治五郎招かれ講道館唐手演武、形の解説板割りなどを行った。このときも「柔道元祖嘉納先生をして嘆賞辟易せしめた」という。これは船越上京する11年前出来事であったまた、嘉納沖縄訪問した際には、本部朝基料理屋招いて唐手について熱心に質問するなど、唐手に対して並々ならぬ関心抱いていた。 嘉納は、「乱取だけでは、当身練習ができぬ」と述べ当身技研究した講道館唐手演武をした儀間真謹によれば、「この形(精力善用国民体育の形)の中には沖縄唐手術の技法随所用いられている」と指摘し、その研究成果精力善用国民体育の形としてまとめられた、と考えている。 ただし、嘉納1909年(明治42年)に発表した擬働体操」には竪板磨、四方蹴、四方当など、精力善用国民体育の形に含まれる鏡磨、五方蹴、五方当の原型とも考えられる動作が既に紹介されている。 なお、嘉納船越義珍本部朝基宮城長順摩文仁賢和等への接近やその上京への斡旋協力などを通し1934年には唐手の名称改め空手嘉納斡旋によって大日本武徳会柔道部門への入部認められることになる。空手本土における上陸全国的な普及活動糸口となったのが講道館での演武会であり、それが近代空手道出発点となる。

※この「精力善用国民体育に対する空手界からの主張」の解説は、「講道館」の解説の一部です。
「精力善用国民体育に対する空手界からの主張」を含む「講道館」の記事については、「講道館」の概要を参照ください。

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