精力善用国民体育に対する空手界からの主張
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「講道館」の記事における「精力善用国民体育に対する空手界からの主張」の解説
また、この形に使用されている当身技、特に単独動作の当身技については、嘉納治五郎の唐手(のちの空手)研究の成果によるものとの空手界からの指摘がある。 1922年(大正11年)5月、船越義珍は文部省主催の第一回体育展覧会に唐手を紹介するために上京してくる。その第一回体育展覧会における唐手の演武の実現は船越からの頼み込みを受け、その同郷の先輩であった東京高等師範学校教授の金城三郎の懇願を通して、当時大日本体育協会名誉会長として本大会主催者であり東京高等師範学校前学校長であった嘉納治五郎の斡旋により実現したものであった。 同年6月、嘉納は船越を講道館に招待して、唐手演武を参観した。その際全ての演武が終了すると、嘉納は師範席から立ち上がり、「形」の運足法や組手形の要領について鋭い質問した。当時、講道館には柔術や拳法の家系や流派出の専門家も沢山おり質問も専門的なものであった。船越と共に唐手の演武を行った儀間真謹は嘉納の質問の鋭さ、具体性に舌を巻きその際の緊張感について述懐している。 嘉納が唐手に興味をもったきっかけは、1908年(明治41年)、沖縄県立中学校の生徒が京都武徳会青年大会において、武徳会の希望により唐手の型を披露としたときであったとされ、このとき「嘉納博士も片唾を呑んで注視してゐた」という。 また、1911年(明治44年)、沖縄県師範学校の唐手部の生徒6名が修学旅行で上京した際、嘉納治五郎に招かれて講道館で唐手の演武、形の解説、板割りなどを行った。このときも「柔道元祖嘉納先生をして嘆賞辟易せしめた」という。これは船越が上京する11年前の出来事であった。また、嘉納が沖縄を訪問した際には、本部朝基を料理屋に招いて唐手について熱心に質問するなど、唐手に対して並々ならぬ関心を抱いていた。 嘉納は、「乱取だけでは、当身の練習ができぬ」と述べ、当身技を研究した。講道館で唐手演武をした儀間真謹によれば、「この形(精力善用国民体育の形)の中には、沖縄唐手術の技法が随所に用いられている」と指摘し、その研究成果は精力善用国民体育の形としてまとめられた、と考えている。 ただし、嘉納が1909年(明治42年)に発表した「擬働体操」には竪板磨、四方蹴、四方当など、精力善用国民体育の形に含まれる鏡磨、五方蹴、五方当の原型とも考えられる動作が既に紹介されている。 なお、嘉納の船越義珍、本部朝基、宮城長順、摩文仁賢和等への接近やその上京への斡旋、協力などを通し、1934年には唐手の名称改め空手は嘉納の斡旋によって大日本武徳会の柔道部門への入部が認められることになる。空手の本土における上陸、全国的な普及活動の糸口となったのが講道館での演武会であり、それが近代空手道の出発点となる。
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