精力善用による普遍性と柔剛一体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:24 UTC 版)
「柔道」の記事における「精力善用による普遍性と柔剛一体」の解説
嘉納治五郎は、武術面における「精力善用」を説明する上で、従来の原理の相手の力を利用して相手を制する「柔能く剛を制す」では柔道(柔術)の幾つもある理屈の中の一つの理屈にとどまり大きな包含的な言葉ではないとして、それに対し更にそれも内包するものとして、いついかなる場合にも当てはまる理屈、普遍性を持つ包含的な概念としての「精力善用」に至る。従来の「柔の理」では説き明かせない補完される場面、強い拘束から逃れる場面や、巧みに力を利用して強い力が弱い力を破る場面、平素乱暴して皆が困っている悪者を捕り押さえよう等するがその対手が向こうから攻撃してこずこちらからそれ相応の方法で手を出す必要がある場面、また勝負時の相手を蹴る、手で突く、刀で斬る、棒で突くなどの当身にも応用される包含的な原理・概念となる。 精力善用に関する嘉納自身の言説には「剛」という言葉による説明はないが、嘉納の普遍的な思想・精神は空手界にも影響し、中国古典の三略に由来する「柔の理」の「柔能く剛を制す」(柔能制剛)と対になる造語として「剛能く柔を断つ」(剛能断柔)という言葉が生まれたとされる。また少林寺拳法の開祖の宗道臣は、柔道は「柔を主である」としながらも嘉納の言説から「柔剛一体(剛柔一体)」と理解されるとしている。 柔道用語における概念の普遍性は「精力善用」によって説明されるが、近年のメディア作品によって「柔能く剛を制し、剛能く柔を断つ」「柔剛一体」の言葉によって柔道を説明する場面が見られる。しかしそれらは本来的には「精力善用」に内包された概念となっている。
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