第4次イーラム戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:57 UTC 版)
「スリランカ内戦」の記事における「第4次イーラム戦争」の解説
詳細は「第4次イーラム戦争(英語版)」を参照 2006年7月26日のスリランカ空軍によるLTTEキャンプ空爆から始まる戦い。2005年11月にマヒンダ・ラージャパクサが第6代大統領に就任して以後、政府とLTTEは「低強度の戦争状態」と表現される停戦違反が繰り返されるものの、戦争状態とも言えない不安定な状態にあった。政権側は当初LTTEとの和平を模索したものの、2006年4月の停戦協議離脱宣言と陸軍司令官サラット・フォンセカへの自爆テロ(フォンセカは重傷を負ったものの生還した)、並びに7月に東部バッティカロア県北部で農業用水が遮断されたのを機に、LTTE殲滅へと乗り出した。 アメリカ合衆国から人権侵害を理由に援助を打ち切られたスリランカ政府軍は中華人民共和国やパキスタンから資金面・軍事面で大規模な支援を受け、これまでの戦いではほとんど投入されてこなかった海軍・空軍も動員して総力戦を展開。対するLTTE側も、2006年10月のシー・タイガーによる南部ゴール港襲撃を始め、2007年3月には首都近郊のカトゥナーヤカ空軍基地を夜間空襲するなど、激しい抵抗をみせるが、2007年7月にカルナ派と連携した政府軍により、経済的な中心地である東部州が制圧されると次第に弱体化。11月には本拠地キリノッチへの空爆で、LTTEのナンバー2で政治部門トップであり、和平交渉の窓口でもあったスッパヤ・パラム・タミルセルバン(英語版)が死亡した。翌2008年1月、スリランカ政府は停戦協定を正式に破棄した。 政府軍はさらに攻勢を強め、2008年8月には西海岸におけるシー・タイガーの拠点を攻略、2009年1月2日にはキリノッチを、25日には最後の都市拠点ムッライッティーヴーを攻略した。政府軍に追われたLTTEは4月に入って、ついにムッライッティーヴー北部の20km2ほどの海とラグーンに挟まれた細長い地域に追い詰められることとなった。LTTE側は防御陣地を構築するとともに、20万人ものタミル人避難民を人間の盾としながら同地に立て籠もって抗戦を続けた。政府軍は4月20日より大規模な避難民救出作戦を敢行、この作戦により15万人あまりの難民が同地から脱出した。5月に入り、国際社会が遅まきながら難民保護のための停戦要求を強めるも、すでに勝利を目前にしていた政府軍は攻撃を続行。最終的には5月半ばには沿岸部の制圧が完了、17日にはLTTE広報委員長セルバラサ(英語版)が戦闘放棄を発表した。翌18日にはLTTE創設者で最高指導者であったヴェルピライ・プラバカラン議長の遺体も発見されている。ラージャパクサ大統領は19日、国会で26年に亘った内戦の終結を宣言した。
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