第4次ウニヴェルサール期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:29 UTC 版)
「ウクライナ中央ラーダ」の記事における「第4次ウニヴェルサール期」の解説
12月には、ロシアのソヴィエト政権はウクライナに「最後通牒」を突きつけた。ウクライナでの赤軍(ソヴィエト軍、ボリシェヴィキ軍)の行動の自由の是認などと引き換えにウクライナ人民共和国を承認するとする要求は、到底中央ラーダの呑めるものではなかった。中央ラーダの拒否を受け、ボリシェヴィキはウクライナへ軍事侵攻を行うことを決定した。また、扇動者を送り込み、中央ラーダ勢力の切り崩しにかかった。中央ラーダ軍は精鋭部隊のシーチ銃兵隊に加え、ウクライナ・コサックによる民兵組織「自由コサック民兵団」、農民や学生の部隊を中心とした雑多な軍隊であった上に、ボリシェヴィキの扇動によりさらに混乱を極めていた。赤軍は各地で中央ラーダ軍を破り、翌1918年1月にはキエフで激しい戦闘が行われた。中央ラーダは1月22日、「第4次ウニヴェルサール」(第4次宣言;IV Універсал)を発し従来の「ロシア連邦」下での協調路線を捨てウクライナが完全に独立することを宣言したが、抗し切れず、2月にはキエフを退いてジトーミルへ逃れた。
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