第4次グラッドストン内閣内務大臣
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「ハーバート・ヘンリー・アスキス」の記事における「第4次グラッドストン内閣内務大臣」の解説
1892年6月の解散総選挙(英語版)は自由党の辛勝に終わった。アスキスもイースト・ファイフ選挙区で再選を果たす。 保守党の首相ソールズベリー侯爵は総選挙の敗北にもかかわらず、なかなか辞職しようとしなかったため、自由党党首グラッドストンは内閣不信任案を提出することを決定し、その動議をアスキスに任せた。アスキスは8月8日に内閣不信任案を提出し、雄弁な演説を行った。アスキス提出の内閣不信任案は3日にして可決されている。 こうして第4次グラッドストン内閣が発足する運びとなった。グラッドストンはアスキスの働きを評価し、彼を内務大臣に抜擢した。グラッドストンは政務次官を経ていない者をいきなり閣内大臣に任命するような抜擢人事を嫌う人だったので、極めて異例の抜擢だったといえる。 新内務大臣アスキスは8月28日にヴィクトリア女王から陪食を許されたが、女王はその日の日記の中でアスキスについて「気持ちよく素直にして分別がある人物と見える」と書いている。 内相就任早々にトラファルガー広場で予定されていた左翼集会を許可するか否かの問題にぶつかった。前保守党政権はこの集会を禁止する方針だったが、アスキスはこの方針を変更し、土曜日の午後、日曜日、銀行休業日の日中であり、かつ事前に日時と行進ルートを警視庁に申し出ておけば自由にデモをしてよいという方針を定めた。この方針は現在のイギリスにも受け継がれている。 また工場法改正に着手し、検査制度の強化、女性の検査官就任を認める改正を主導した。 1893年初頭にはアイルランド国民党パーネル派がアイルランド独立運動家の爆破テロリストたちを釈放するよう内務大臣アスキスに要請してきたが、アスキスは「政治犯と個人犯罪の間に差別は認められない」としてその要求を拒否した。自由党内では友党アイルランド国民党に対して遠慮する者が多かったが、アスキスの法の執行者としての毅然たる態度はそうした政治的配慮で揺らぐことはなかった。 1893年秋にはフェザーストーン(英語版)で労使対立が深刻化し、暴動が発生したが、アスキスは現地警察の要請に応じて、その鎮圧のために軍隊を投入するのに主導的役割を果たした。このアスキスの対応には批判もあったが、アスキスは「現地のことは現地警察が一番よく分かっているはずであり、それより情報が少ない内務大臣が現地警察の要請を無碍に断るべきではない」と反論した。
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