第4次ピブーン内閣
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1949年6月25日 - 1951年11月29日 ピブーンソンクラームはこのころアメリカ寄りの外交を見せ、1950年にはアメリカと経済協定(9月19日)、軍事協定(10月27日)を結んだ。 1951年6月21日、海軍を中心にした救国団により、マンハッタン号事件が起きた。これは、米軍からタイ海軍へマンハッタン号を贈与する式典中に、空軍がマンハッタン号を爆破した事件である。 式典に出席していたピブーンソンクラームは、2人の副官とともに海軍の砲艦に連行・拘束されたが、政府側は砲艦を爆撃。隙をついて艦から、チャオプラヤー川に飛び込み、とある警官に引き上げられで命を長らえた。クーデターは短期間で失敗し、海軍は後に勢力を縮小され、以降クーデターを主体的に行うことはなくなった。 同年の11月29日、政変団のメンバーであったピン・チュワンハンがクーデターを起こした。これはピブーンソンクラームに仕組まれたものであった。俗に静かなるクーデターと呼ばれ、仏暦2475年サヤーム王国憲法の復興を目指したものであった。これにより第5次ピブーン内閣が成立、全政党が解散し、政治はピブーンソンクラームの独裁体制となった。
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