第2期の建設と供用
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1893年までにNYLE&Wは倒産し、エリー鉄道に合併され、エリー鉄道がキンズーア橋の所有者になった。 20世紀初頭には機関車はほぼ85パーセント重くなり、錬鉄製の橋はもはや安全に列車を通せなくなった。 1900年5月14日旧橋最後の列車が渡り、5月24日撤去が始まった。 新橋はC.R.グリム(C.R.Grimm)によって設計されエルミラ・ブリッジ・カンパニー(Elmira Bridge Company)によって3046トンの鋼鉄を使い、27万5,000ドルの費用で建設された。 建設工事は5月26日、旧橋跡の両端から始まった。100人から150人の作業員が1日10時間ほぼ4ヶ月掛けて新たな鋼鉄製フレームを完成させた。2基のハウトラス構造「材木運搬機(timber traveler)」(各々長さ50メートル、深さ5メートル)が塔を建設するのに用いられた。 個々の「運搬機」は(2塔で)1組の旧橋の錬鉄製橋脚塔に支持され、その旧橋脚塔は建設された新橋脚塔を使って解体された。新橋脚塔間の旧橋脚塔が解体され鋼鉄製の新塔に置き換えが済むと、運搬機は新橋脚塔を使って下に降ろされた。この1連の作業が繰り返された。新橋脚塔を建設してスパン(橋脚間を渡す構造物: 支間)を取付け完成するのに1週間を要した。 塔をアンカーブロックに固定するボルト(アンカーボルト)は旧橋のものが再利用された。このことが結果的に橋の崩壊において重要な役割を演じることになる。 設計者のグリムは後年、ボルトは全て交換されるべきだったと認めている。 キンズーア高架橋は1900年9月25日に再開通した。新橋は世界で最も重い機関車の1つである464トンのビッグ・ボーイでも安全に通す事ができた。 エリー鉄道は1911年から1916年に建設を行って キンズーア高架橋に駅を整備した。駅員のいない無人駅だった。 この駅は1923年から1927年の期間、時々閉鎖された。 列車の乗務員達は新米制動手(brakeman)を初乗務でからかうことがあった。列車が橋に近づいた時、乗務員は何か小さな問題が起きたと騙して制動手を車両の屋根に登らせた。そのまま列車が橋を渡ると新米は「自分が恐ろしい場所、つまり揺れる貨車の屋根の上から91メートル下に転落するかも知れない場所にいる事に気付かされたのだった」。 再建後でさえキンズーア橋の制限速度は時速8キロメートルのままだった。橋が古くなるのにつれ、2両の蒸気機関車に引かれた重い列車は、機関車が同時に渡る事が無いよう停車せねばならなかった。ディーゼル機関車はずっと軽量で、この問題は起きなかった; 蒸気機関車が最後にキンズーア橋を渡ったのは1950年10月5日だった。 1950年代終わりにエリー鉄道は近在のボルチモア・アンド・オハイオ鉄道線から鉄道通行権(英語版)(trackage rights)を獲得し、老朽化したキンズーア橋を迂回できるようになった。1959年6月21日、定期商業運行は終了し、エリー鉄道はキンズーア橋を7万6,000ドルでインディアナ (ペンシルベニア州インディアナ郡)のコーヴァルチック・サルベージ・カンパニー(Kovalchick Salvage Company)に売却した。 橋は1959年10月、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道線の破壊不通によってどうしても列車をルート変更(迂回)する必要に迫られ1日間だけ再開通して列車を通したことがある。 米国土木学会によれば、キンズーア橋は「ペンシルベニア州北西部から東部5大湖地域(Eastern Great Lakes region)への石炭輸送設備の中でもクリティカル(決定的に重要)な構造物であり、重要な経済成長を導くことになる石炭採掘量の増加をもたらしたと考えられている。」
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