第1、第2の哨戒 1944年6月 - 10月
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「プライス (潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1944年6月 - 10月」の解説
6月3日、プライスは最初の哨戒で小笠原諸島方面に向かった。6月30日、プライスは北緯28度20分 東経141度23分 / 北緯28.333度 東経141.383度 / 28.333; 141.383の聟島北西80キロの水域で元特設砲艦百福丸(尼崎汽船、986トン)を撃沈。7月5日には、北緯27度50分 東経141度20分 / 北緯27.833度 東経141.333度 / 27.833; 141.333の西之島北東約40キロの水域で特設捕獲網艇興義丸(三光汽船、857トン)を撃沈した。7月18日には輸送船団を攻撃して時雨型駆逐艦の撃沈を報じ、後日第50号駆潜艇を撃沈とされたが、同艇は7月21日に空襲で沈没している。7月25日、プライスは52日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。 8月17日、プライスは2回目の哨戒で日本近海および南西諸島方面に向かった。9月7日の午後遅くに、北緯27度26分 東経126度54分 / 北緯27.433度 東経126.900度 / 27.433; 126.900の地点で金剛丸(国際汽船、7,043トン)クラスの特設巡洋艦と思しき艦船に対して魚雷を発射し、1本の命中を得たと判断された。9月24日には北緯29度3分 東経129度15分 / 北緯29.050度 東経129.250度 / 29.050; 129.250の地点で、扶桑型戦艦に対して6本の魚雷を発射。スクリューを止める効果はあったと判断された。3日後の9月27日未明、プライスは北緯29度41分 東経128度02分 / 北緯29.683度 東経128.033度 / 29.683; 128.033のトカラ列島宝島北西50キロの水域で、陸軍特殊船吉備津丸(日本郵船、9,575トン)などが加わったヒ72船団を護衛し門司に向かっていた第10号海防艦を撃沈。輸送船に対しても3本の魚雷を命中させたと判断された。10月7日にミッドウェー島に寄港し、翌日、スレッシャー (USS Thresher, SS-200) と共に真珠湾に回航された。10月12日、プライスは56日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
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第1、第2の哨戒 1944年6月 - 10月
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「ピラーニャ (潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1944年6月 - 10月」の解説
6月14日、ピラーニャは最初の哨戒でガードフィッシュ (USS Guardfish, SS-217)、スレッシャー (USS Thresher, SS-200) およびアポゴン (USS Apogon, SS-308) とウルフパック "Mickey Finns" を構成しルソン海峡方面に向かった。7月12日朝、ウルフパックはバタン諸島近海で、南下してくるモマ01船団を発見。7時20分、ピラーニャは北緯18度50分 東経122度40分 / 北緯18.833度 東経122.667度 / 18.833; 122.667の地点で日蘭丸(南洋海運、6,503トン)に魚雷を2本命中させて撃沈した。4日後の7月16日朝、ウルフパックは北緯19度15分 東経120度15分 / 北緯19.250度 東経120.250度 / 19.250; 120.250の地点で、高雄からマニラに向かうタマC21船団を発見。9時45分、ピラーニャは志あとる丸(大阪商船、6,182トン)を撃沈。これを手始めにスレッシャーが西寧丸(大連汽船、4,918トン)と祥山丸(興国汽船、2,838トン)を、ガードフィッシュが仁山丸(宮地汽船、5,215トン)、満泰丸(山下汽船、5,864トン)と日山丸(宮地汽船、2,838トン)をそれぞれ撃沈し、その損失はフィリピンの日本陸軍に痛手を与えた。数回敵機および哨戒艇による攻撃を受けたものの、ピラーニャは損傷なく切り抜けた。8月8日、ピラーニャは52日間の行動を終えてマジュロに帰投した。 8月30日、ピラーニャは2回目の哨戒でフィリピン近海に向かった。この頃、ウィリアム・ハルゼー大将率いる第3艦隊がペリリュー島攻略支援でこの海域に進出した。日本海軍の艦隊が出動することを念頭に置き、ハルゼー大将はフィリピンとペリリューの間にピラーニャを含む10隻の潜水艦を、日本海軍が採用したような二重の散開線を構成して配備させた。この散開線は俗に「ハルゼーの動物園」(あるいは単に Zoo )と呼ばれたが効果は全くなく、以後の作戦で二度と採用されることはなかった。「動物園」に参加したピラーニャ以下の潜水艦は、任務終了後ルソン海峡方面に移った。ピラーニャも20度線沿いに哨戒を行い、10月9日に哨戒艇と遭遇。ピラーニャは激しい爆雷攻撃に耐え、返り討ちにして敵艦を破壊したと判断された。10月23日、ピラーニャは56日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
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