第二期黄金時代&強力ライバルの出現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 17:10 UTC 版)
「ジーノ・バルタリ」の記事における「第二期黄金時代&強力ライバルの出現」の解説
第二次世界大戦後、バルタリは復帰した。そして同胞の宿命のライバルであるファウスト・コッピと鎬を削ることになる。 5歳年下にあたるコッピは、1940年のジロで総合優勝。そして1942年には45.798kmのアワーレコードを樹立していた。そんなコッピのことをバルタリは可愛がっていた。1939年のシーズン終了後に自らの所属するチームに引き入れ、1940年のジロのときにはコッピのアシストにも回っていた。だが戦前はまだまだバルタリの存在はコッピにとってみれば雲の上であった。 戦後まもない1946年に入ってバルタリとコッピの立場は対等となる。ジロでかろうじてコッピを退けて3度目の総合優勝を果たしたバルタリだが、ミラノ~サンレモではコッピに完敗していた。その後、バルタリは同年のツール・ド・スイス、チューリッヒ選手権を制覇。一方、コッピはグランプリ・デ・ナシオン、ジロ・ディ・ロンバルディアを制していた。1947年、バルタリは3度目のミラノ~サンレモ制覇及びツール・ド・スイス連覇を果たしたが、この年のジロの総合優勝はコッピの手に渡った。 1948年のツール。バルタリはイタリアのエースとして出場。第1ステージを早くも制したバルタリは、その後、ルイゾン・ボベにマイヨの座を明け渡すものの、アルプス超えの第13ステージにおいて、イゾアール峠でトップに立つとそのまま押し切って区間優勝。そしてここでマイヨもボベから奪取。するとその余勢をかって、続く第14・15ステージまでも制し、アルプスステージ終了時点ではボベに13分以上の大差をつけていた。そして終わってみれば、総合2位のブリック・ショットに26分16秒の差をつける圧勝劇を演じた。 1949年、この年のジロを制したコッピはツールも出場。そしてバルタリも出場することになったことからイタリアチームは当時としては極めて異例の「ダブルリーダー制」を取ることになった。第16ステージ、先にイゾアール峠を通過したコッピだが、バルタリがその後追随してくるだろうと考えていた。またバルタリもコッピを追撃した。その結果、ゴール地点のブリアンソンでは同タイムで仲良くワンツーフィニッシュ。区間優勝はバルタリの手に落ち、またマイヨもここでバルタリの手に渡ったが、続く第17ステージではコッピが圧勝し、マイヨもコッピに移動。そして第20ステージの個人TTでコッピはバルタリに大きく差を広げ、終わってみればバルタリに10分以上の差をつけた。コッピは史上初の「ダブルツール」を達成した。 と同時に、ここで対等の立場と考えられてきたバルタリとコッピの立場は大きく変わり、その後バルタリは1950年のミラノ~サンレモ、1952年の国内選手権を制した程度に止まったのに対し、コッピはその後もダブルツールを1952年に果たすなど次々と大レースをモノにしていった。コッピが丁度「カンピオニッシモ」と言われるようになった1954年に、バルタリは現役を引退した。 ところで、コッピが現役最後となったチームの監督はバルタリであった。コッピは1960年にマラリアの感染が原因による熱病により他界するが、アラッシオに、仲良く2人の直筆のサインが刻まれた石碑がある。このようにして見ていくと、お互いに良きライバル関係であったということが伺える。
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