第二映劇の時代
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第二次世界大戦後の1956年(昭和31年)、滋賀県草津市大路井町(現在の同県同市大路1丁目2番14号)に草津第二映画劇場として開館した。同館を経営した角正太郎(1899年 - 1987年)は、1948年(昭和23年)8月に文榮座(大路井町537番地、1927年開館、のちの草津グリーン劇場)を入手して復興して経営したが、同館を開館するとともに、文榮座を手放し、荒廃していた大正座(草津本町2丁目9番地)を入手して復興、これを草津映画劇場と改称、同館はこれに次ぐ映画館と位置づけられた。のちに同館の歴史に言及・報道する際に、文榮座がその起源として語られることがあるが、文榮座と同館では立地が異なる。 開館当初の同館は、支配人が芝宇太郎、観客定員数が500名、興行系統は一定の映画会社の封切館ではなく、日本映画各社の作品をブッキングして上映した。角正太郎は、1958年(昭和33年)11月2日には、伊藤武郎の独立映画に協力して、東京に映画の製作会社として大東興業を設立、同社において『キクとイサム』(1959年)、『武器なき斗い』(1960年)の2作をしている。同年、同館の経営が、長男の角沙門(1934年 - )に引き継がれる。 同館の立地した大路井町は、東海道本線の駅であり草津線の起点である草津駅の南、駅東口を出てすぐ右折した商店街に位置した。草津宿跡であり、大正座のあった草津本町(現在の草津市草津)とは、1886年(明治19年)につくられた草津川トンネルでつながっていた。同館が開館した年の11月19日、東海道本線の米原 - 京都間が電化し、全線電化が完成した。同館の開館2年前の1954年(昭和29年)10月15日には、草津町は市制を施行して草津市になっており、その4年後の1958年には、同館の面した道は滋賀県道143号下笠大路井線に制定されている。草津市内の映画館は3館になり、同市都市部の娯楽の中心的存在となった。 その後、1963年(昭和38年)には草津映画劇場が閉館したが、同館は「草津第二映画劇場」でありつづけた。市内にもう1館残ったかつての文榮座が草津東映劇場であった1967年(昭和42年)前後には、同館は大映・日活・松竹の作品を上映し、文榮座が草津東宝劇場を経て草津グリーン劇場と改称、日活ロマンポルノを中心とする成人映画館となった1972年(昭和47年)前後には、同館は外国映画(洋画)および松竹の作品を上映する混映館になっていた。1987年(昭和62年)には、創立者の角正太郎が亡くなった。
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