第二映劇の時代とは? わかりやすく解説

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第二映劇の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/14 13:51 UTC 版)

草津シネマハウス」の記事における「第二映劇の時代」の解説

第二次世界大戦後1956年昭和31年)、滋賀県草津市大路井町現在の同県市大路1丁目2番14号)に草津第二映画劇場として開館した。同館を経営した角正太郎1899年 - 1987年)は、1948年昭和23年8月文榮座大路井町537番地1927年開館、のちの草津グリーン劇場)を入手して復興して経営したが、同館を開館するとともに文榮座手放し荒廃していた大正座草津本町2丁目9番地)を入手して復興、これを草津映画劇場改称、同館はこれに次ぐ映画館位置づけられた。のちに同館の歴史言及報道する際に、文榮座がその起源として語られることがあるが、文榮座と同館では立地異なる。 開館当初の同館は、支配人太郎観客定員数が500名、興行系統一定の映画会社封切館ではなく日本映画各社作品ブッキングして上映した角正太郎は、1958年昭和33年11月2日には、伊藤武郎独立映画協力して東京映画の製作会社として大東興業設立同社において『キクとイサム』(1959年)、『武器なき斗い』(1960年)の2作をしている。同年、同館の経営が、長男の角沙門1934年 - )に引き継がれる。 同館の立地した大路井町は、東海道本線の駅であり草津線起点である草津駅の南、駅東口出てすぐ右折した商店街位置した草津宿跡であり、大正座のあった草津本町現在の草津市草津)とは、1886年明治19年)につくられ草津川トンネルつながっていた。同館が開館した年の11月19日東海道本線米原 - 京都間が電化し、全線電化完成した。同館の開館2年前の1954年昭和29年10月15日には、草津町市制施行し草津市になっており、その4年後の1958年には、同館の面した道は滋賀県道143号下笠大路井線制定されている。草津市内の映画館は3館になり、同市都市部娯楽中心的存在となったその後1963年昭和38年)には草津映画劇場閉館したが、同館は「草津第二映画劇場」でありつづけた市内にもう1館残ったかつての文榮座草津東映劇場であった1967年昭和42年前後には、同館は大映日活松竹作品上映し文榮座草津東宝劇場経て草津グリーン劇場改称日活ロマンポルノ中心とする成人映画館となった1972年昭和47年前後には、同館は外国映画洋画)および松竹作品上映する混映館になっていた。1987年昭和62年)には、創立者角正太郎亡くなった

※この「第二映劇の時代」の解説は、「草津シネマハウス」の解説の一部です。
「第二映劇の時代」を含む「草津シネマハウス」の記事については、「草津シネマハウス」の概要を参照ください。

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