第一尚氏王朝以前
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「まんが首里城ものがたり」の記事における「第一尚氏王朝以前」の解説
察度 1321年、浦添で出生。彼を支持する人に押されて1350年に革命を起こし、英祖王朝を倒して王位に就く。浦添が首都としては不便なのでま首里=那覇に遷都した。明(中国)と国交を結び、1395年に死す。 武寧 察度王朝・二代目にして最後の国王。明との冊封体制を積極化するが、政治を怠ったらしく1405年、尚巴志に王位を追われる。 洪武帝 明(中国)の初代皇帝。使節団を派遣して、察度時代から琉球と国交成立(冊封貿易の開始)。 尚巴志 武寧を倒して父・思紹を王位につけた。第一尚氏王朝事実上の創業者。1416年には北山を、1429年には南山を平定して統一を果たす。 島添大里按司 巴志の一族・大城按司を滅ぼした大里城主。巴志に対しても抵抗するが、1402年に降伏する。 成祖永楽帝 明(中国)の帝。彼の時代に琉球で革命が起きて、武寧から思紹に禅譲されて建前上は思紹が武寧の義息ということにしていたが、琉球との円滑な関係を重視したことから革命を黙認している。 攀安知 北山最後の王(3代目)。武勇豪快な君主ではあったが、わがままで護佐丸たち按司の離反を招いた。1416年、巴志・北山按司連合軍相手に善戦するも、家臣・本部平原の裏切りに逢い、自刃する(平原は彼にすぐ討たれ死)。 他魯毎 南山最後の王(4代目)。いくつかの混乱期を超えて1415年に即位、明との関係を重視するが中山との「屏風事件」によって家来に離反され、王位を追われて南山は1429年滅亡する。 護佐丸 もともと、北山・読谷の按司(城主)であったが、北山王・攀安知の暴走に反感を持ち、中山・尚巴志に帰順して1419年に巴志とともに北山を打倒する。巴志は彼を北山守護職及び座喜味城主とした。巴志の死後も歴代国王の信頼が厚く、「義理を重んじる家来」とされたが、近隣の城主である阿麻和利の策謀にはまり1458年自刃する。彼の末子と大城賢雄により仇討ちが果たされた。 尚金福 第一尚氏王朝・四代国王。巴志の五男であったが、兄・忠、甥・思達の急死で即位。この時代に日本との国交が初めて成立する。泰久とともに王朝繁栄期であった。 志魯、布里。 金福の息子と弟。金福の死後、王位争いをしてお互いに討ち死にする。 尚泰久 第一尚氏王朝・五代国王、巴志の弟。志魯・布里の戦争で荒廃した琉球の立て直しに尽力。金丸をとりたてて、財政再建を任せた。だが、阿麻和利の反乱に苦心して無理がたたり、在位7年で崩御。 芥隠 泰久時代の僧侶。泰久に仏の道を導き、精神的な支えとなった。彼の指揮で万国津梁の鐘が完成する。金丸の革命後も、閑山の住職となった。
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