第一尚氏王朝以前とは? わかりやすく解説

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第一尚氏王朝以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 05:02 UTC 版)

まんが首里城ものがたり」の記事における「第一尚氏王朝以前」の解説

察度 1321年浦添出生。彼を支持する人に押され1350年革命起こし英祖王朝倒して王位に就く浦添首都として不便なのでま首里那覇遷都した。明(中国)と国交を結び、1395年死す武寧 察度王朝・二代目にして最後国王。明との冊封体制積極化するが、政治怠ったらしく1405年尚巴志王位追われる洪武帝 明(中国)の初代皇帝使節団派遣して察度時代から琉球国交成立冊封貿易開始)。 尚巴志 武寧倒して父・思紹王位につけた第一尚氏王朝事実上創業者1416年には北山を、1429年には南山平定して統一を果たす。 島添大里按司 巴志一族大城按司滅ぼした大里城主巴志に対して抵抗するが、1402年降伏する成祖永楽帝 明(中国)の帝。彼の時代琉球革命起きて武寧から思紹禅譲されて建前上は思紹武寧義息ということにしていたが、琉球との円滑な関係を重視したことから革命黙認している。 攀安知 北山最後の王3代目)武勇豪快な君主ではあったが、わがままで護佐丸たち按司離反招いた1416年巴志北山按司連合軍相手善戦するも、家臣本部平原の裏切りに逢い自刃する(平原彼にすぐ討たれ死)。 他魯毎 南山最後の王4代目)。いくつかの混乱期超えて1415年即位明との関係重視する中山との「屏風事件」によって家来離反され、王位追われ南山1429年滅亡する護佐丸 もともと、北山読谷按司城主であったが、北山王・攀安知暴走反感持ち中山尚巴志帰順し1419年巴志とともに北山打倒する巴志は彼を北山守護職及び座喜味城主とした。巴志死後歴代国王信頼厚く、「義理重んじる家来」とされたが、近隣城主である阿麻和利策謀にはまり1458年自刃する。彼の末子大城賢雄により仇討ち果たされた。 尚金福 第一尚氏王朝四代国王巴志の五男であったが、兄・忠、甥・思達の急死即位。この時代日本との国交初め成立する泰久とともに王朝繁栄期であった志魯、布里。 金福息子と弟。金福死後王位争いをしてお互いに討ち死にする尚泰久 第一尚氏王朝五代国王巴志の弟。志布里戦争荒廃した琉球立て直し尽力金丸とりたてて財政再建任せた。だが、阿麻和利反乱苦心して無理がたたり、在位7年崩御芥隠 泰久時代僧侶泰久に仏の道を導き精神的な支えとなった彼の指揮万国津梁の鐘完成する金丸革命後も、閑山の住職となった

※この「第一尚氏王朝以前」の解説は、「まんが首里城ものがたり」の解説の一部です。
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