芥隠とは? わかりやすく解説

芥隠承琥

(芥隠 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 16:10 UTC 版)

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芥隠承琥(かいいんしょうこ、? - 1495年6月8日明応4年5月16日[1])は、室町時代日本禅僧琉球王国に初めて臨済宗を伝えた。

概要

初めは京都南禅寺の僧で、1450年宝徳2年)、琉球へ赴き臨済宗を伝える[1]。第一尚氏・第二尚氏の両王統にまたがり、4人の王(尚泰久王尚徳王尚円王尚真王)に仕えた。

尚泰久王は深く芥隠に帰依し、広厳寺・普門寺・天龍寺・崇元寺など多くの仏寺を建立するとともに、梵鐘を多く鋳造させ朝夕撞かせるほどであったが、その多くの銘文は芥隠によるものである[注釈 1]

文正元年(1466年)7月28日に琉球国王の来朝使者として、足利義政邸で義政から直接に謁見されており、庭先に席を設けて、その上で三拝した。礼物は「進物」と呼ばれていた(『斎藤親基日記』)(『蔭凉軒日録』)[2]

第二尚氏の廟として崇元寺を開いた。第3代の尚真王も深く帰依し、芥隠を開山として1492年菩提寺として首里円覚寺を建立した[注釈 2]

芥隠は単に仏僧として活動するだけでなく、永く琉球に留まって王府顧問として日琉の貿易外交にも従事し、そうした外交僧の代表的存在であった[4]

脚注

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注釈

  1. ^ ただし、万国津梁の鐘の銘文は渓隠安潜によるものである。
  2. ^ 同寺は鎌倉円覚寺を模した琉球随一の巨刹であったが、沖縄戦で焼失した[3]

出典

  1. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  2. ^ 宮本義己「室町幕府と琉球使節―琉球船貢物点検問題の実相とその意義―」『南島史学』45号、1995年。
  3. ^ 円覚寺 (えんかくじ) - 『琉球新報
  4. ^ 新城俊昭『琉球・沖縄史』東洋企画

関連項目

外部リンク


芥隠

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まんが首里城ものがたり」の記事における「芥隠」の解説

泰久時代僧侶泰久に仏の道を導き精神的な支えとなった彼の指揮万国津梁の鐘完成する金丸革命後も、閑山の住職となった

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