笑点時代でのエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 08:34 UTC 版)
「三波伸介 (初代)」の記事における「笑点時代でのエピソード」の解説
『笑点』司会者当時、レギュラー出演者の桂歌丸と三遊亭小圓遊の大喜利における罵倒合戦が激化したため、2人の「和解式」を提案。三波と当時大喜利メンバーのリーダー格であった5代目三遊亭圓楽が立会人となり、1972年8月27日の放送の中で実際に行われた。 親分肌な性格で、てんぷくトリオや「笑点」メンバーらを纏める統率力に非常に優れていた。豪快な外見とは裏腹に、繊細で研究熱心であり、流れをシミュレーションして収録に臨んだ。特にこだわったのは家族で楽しめる笑いであり、歌丸と小圓遊の罵り合いや林家木久蔵(現・木久扇)の「いやんばか〜ん」、林家こん平の「チャラーン!」などの定番ネタは、三波のリードで名物になったものである。三波自身もしばし「豚」などその容姿を回答のネタにされることも多く、いわゆる司会者イジりを定着させたのもこの頃からである。また、座布団運びの松崎真を紹介する時の「陸に上がったトドの死体」「牛のよだれ」といったフレーズは語り草になっている。 現在のように司会者がオープニングで客席に座って挨拶するスタイルを最初に取り入れたのは三波である。「『笑点』の顔として、お客様の中に入り一体感を持ちたい」との考えから始めたと言われる。なお、三波の司会当時は近くに座る観客にインタビューすることも多く、観客とのやり取りが番組の名物の一つとなっていた。 生ものが苦手で、香川ロケで当地で一番といわれる料亭に招待された際には、出された白魚や刺身を同行していたマネージャーにどんどん薦めて自分の分まで食べてもらい、場の雰囲気を壊さないよう気を遣っていたという。 『笑点』と同じ日本テレビ製作で当時正月に放送されていた『番組対抗かくし芸大会』には笑点チームで参加予定で、亡くなる4日前に三波も参加して演目の収録が行われたが、急遽エントリーを取り止めている。その演し物は『カルメン』であり、心臓を押さえながら最期を迎える役を演じていた。この映像は2005年に発売された「笑点 大博覧会 DVD-BOX」に収録されるまで日の目を見ることはなかった。 三波の急死に伴い、前述したかくし芸大会のエントリー取り止めなど対応に追われたが、すでに発売されていた1983年版笑点カレンダーについては回収が不可能なため三波の文字が残っており、前年よりも売れ行きが伸びたという。 三波が急死した時点で、年内放送分3本が収録済みで放送待ちとなっていたが、急死直後の回で残されたメンバーを集めて追悼特集が放送された他は収録日のテロップ付きで予定通り放送をされて、三波死去時点で未収録だったお正月スペシャルは愛川欽也が代理司会を務めて乗り切り、年明けの本放送1回目から1977年に番組を卒業していた5代目三遊亭圓楽が4代目の司会者に就任した。
※この「笑点時代でのエピソード」の解説は、「三波伸介 (初代)」の解説の一部です。
「笑点時代でのエピソード」を含む「三波伸介 (初代)」の記事については、「三波伸介 (初代)」の概要を参照ください。
- 笑点時代でのエピソードのページへのリンク