空白の10年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「空白の10年」の解説
1929年5月の総選挙でチャーチルはエッピング選挙で再選を果たすも、選挙全体の結果は失業対策を訴えた労働党が289議席を獲得して第一党に躍進した。保守党は260議席、自由党は59議席しか獲得できず、保守党政権は崩壊、チャーチルも大蔵大臣を退任。代わって自由党の協力を受ける労働党政権、第2次マクドナルド内閣が発足した。 もっともこの選挙に保守党が勝利していたとしてもチャーチルは大蔵大臣から罷免されていたといわれる。というのもボールドウィン首相が選挙戦中に「チャーチルは再入閣させない」と周囲に漏らしているからである。チャーチルはこの段階でも自由党と保守党の連合構想を持っており、自由貿易を捨てきれないでいた。そのため党内保護貿易主義者から不満を買っており、孤立しつつあったのである。また個人的にもボールドウィン首相は大蔵省の管轄外のことにまで口を出して閣議の和を乱しがちなチャーチルを嫌っていた。以降チャーチルは10年にわたって閣僚職に就くことができなかった。 1929年秋のアメリカ・ウォール街の大暴落に端を発する世界大恐慌はイギリスも襲い、1929年5月に115万人だったイギリスの失業者数が1930年12月には250万人に倍増した。失業手当が膨大となる中、労働党政権は失業手当削減案をめぐって閣内が分裂し、1931年8月に総辞職。困難な時局に対応できる強力な政府が求められた結果、マクドナルドを首相のままとした保守党、自由党、労働党大連立派(労働党は大連立反対派が主流であり、マクドナルドらは事実上除名された形であった)の3党の大連立による挙国一致内閣が成立した。しかしチャーチルは入閣できなかった。 挙国一致内閣はチャーチルが再導入した金本位制を停止し、大英帝国を排他的なブロック経済圏にする保護貿易を推し進めた。これはイギリスが1世紀近く前に自由貿易に移行して以来の歴史的な保護貿易への回帰だった。 チャーチルは自由貿易主義者だったが、あまりの失業者数の増大に彼の信念も揺らぎ、新聞社経営者初代ビーヴァーブルック男爵マックス・エイトケンらが唱える「帝国自由貿易」という自由貿易の名を借りた帝国特恵関税制度を支持するようになった。 1930年には『My Early Life』を出版し、庶民院議員となるまでの自分の人生を振り返った。冒険活劇調であり、インド人を「蛮族」呼ばわりし、「蛮族」が自分の活躍でばたばたと倒されていった事を自慢げに書いている。1931年からは先祖である初代マールバラ公爵の伝記『マールバラ公 その生涯と時代』の執筆を開始し、マールバラ公を「貪欲で道徳とは無縁の人物」とするマコーレーの評価に反駁したものだった。
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