稲田 九郎兵衛とは? わかりやすく解説

稲田邦植

(稲田 九郎兵衛 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/05 17:39 UTC 版)

稲田邦植

稲田 邦植(いなだ くにたね、1855年12月26日安政2年11月18日) - 1931年昭和6年)5月28日)は稲田家16代当主[1]。稲田家は代々徳島藩の筆頭家老であり、かつ淡路国洲本城主(現在の兵庫県洲本市)だった。維新後は男爵

経歴

安政2年(1855年)11月18日、14代当主稲田植乗の長男として生まれた[1]。母は禎寿院。幼名は小八郎。

父が早く亡くなり、15代当主稲田植誠の養子となった[1]1865年慶応元年)12月、11歳で家督を継ぎ、九郎兵衛を名乗った[1]。徳島藩は佐幕であったのに対して、尊皇攘夷派であったため早々に新政府軍に帰順した[注 1]1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いでは日の御門を守衛し、摂津国西宮への出兵や高松藩の征討、有栖川宮熾仁親王の護衛などの任を務めた[1]。しかしこれらの出兵は徳島藩の裁可を得たものでなく、より一層対立を深めることとなる。

1870年明治3年)5月、庚午事変により兵庫県貫属となる[1][注 2]。同年10月、新政府より北海道静内郡(現在の新ひだか町の一部)及び色丹島(花咲郡志古丹)を賜り、開拓を命じられる。翌年の1871年(明治4年)3月15日に一向に開拓が進まない徳島藩領となっていて、隣接する新冠郡を加増されるが、7月の廃藩置県により、館藩(松前藩)の旧領を除く北海道全体が北海道開拓使の管轄下となったため、領有権は無くなったが開拓使貫属となり、開拓使のもとで静内の開拓に従事した。明治5年に稲田邸が完成し、1873年(明治6年)、邦植は家族とともに静内に移住した。

1877年(明治10年)西南戦争が起こると予備少尉の任を受け、旧家臣と東京に出陣した。1879年(明治12年)陸軍少尉となり、札幌に在勤した[1]。静内での実務面は弟の邦衛が行った。1895年(明治28年)に静内の土地や建物は邦衛に譲って徳島県に引退した。

1896年(明治29年)6月9日、勤王および北海道開拓の功により男爵となる[2][1]1910年(明治43年)に正四位。甥の稲田昌植を養子として迎えた。1920年大正9年)2月10日に隠居し、同年3月10日に昌植が男爵を襲爵した[3][4]

1931年昭和6年)5月28日、死去[1]。墓所は、洲本市の江国寺。

栄典

親族

(出典:『昭和新修華族家系大成』[8]、『平成新修旧華族家系大成』[3]

関連作品

  • 北の零年』 - 庚午事変を題材にした映画。作中、静内に船で到着するが時代が変わったとすぐに帰ってしまうのは、史実と異なる。

脚注

注釈

  1. ^ 「稲田藩」とも言われる。
  2. ^ 稲田家の北海道開拓費用を兵庫県が出したためと言われる。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 徳島幕末維新期人名辞典”. 徳島県立文書館. 2023年12月29日閲覧。
  2. ^ 霞会館諸家資料調査委員会 1982, p. 165.
  3. ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, pp. 178–179.
  4. ^ 『官報』第2279号、大正9年3月11日。
  5. ^ 『依勲功特授』 『官報』第3883号「授爵叙任及辞令」1896年6月10日. (1896/6). https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2947163/2 
  6. ^ 『官報』第5842号「叙任及辞令」1902年12月22日。
  7. ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日. (1910/12). https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2951610/9 
  8. ^ 霞会館諸家資料調査委員会 1982, p. 164.

参考文献

関連項目

外部リンク

日本の爵位
先代
叙爵
男爵
稲田家初代
1896年 - 1920年
次代
稲田昌植

稲田 九郎兵衛(いなだ くろべえ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:02 UTC 版)

巷説百物語」の記事における「稲田 九郎兵衛(いなだ くろべえ)」の解説

淡州支配にして洲本城城代蜂須賀家家老際立った特産がない淡路仕置きしているので、財源ならない道楽と蔭で顔を顰めている様子がある。堅物ではあるが与太話に目がなく、不思議真贋見極めるのが好きで、諸国珍談奇談記した書物は大抵読んでいるのだが、その裏返し兎に角小理屈言って素直に受け取らない無粋な面も持つ。芝居人形も嫌いではなく藩主に従って表向き人形芝居奨励しているものの、わざわざ人形を操る人形芝居には納得出来ていない。之輔を呼び出して登場させ、丹波興行の際に京都客人丁重に預かるよう申し付ける

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