私生活-娘、そして孫たちとともに
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「ノエラ・ポントワ」の記事における「私生活-娘、そして孫たちとともに」の解説
経歴の節で既に述べたとおり、ポントワは日本人舞踊家の工藤 大貮(くどう だいに、1943年-)との間に一女ミテキ・クドーをもうけている。彼女が子供を産むと決めた時期は、エトワール任命から3年後のことであった。1970年代初頭当時、子供を産む女性ダンサーは少数であり、しかもエトワールの地位にある場合はなおさらのことであった。 周囲はこぞって反対したというが、ポントワは周りの声を意に介さなかった。当時の彼女にとって一番大切なのは、自分のキャリアではなく子供の方だった。後年彼女は「女性として子供を産んで成熟するのは、ごく自然なことだと思ったわ」と述べている。 ポントワは産後1か月半でバーレッスンを再開し、3か月後には舞台に復帰していた。舞台出演の際には、幼いミテキをよく楽屋にも連れて行った。ミテキも母が楽屋内で衣装をつけているところや舞台メイクをしているところを見るのが大好きだった。後にミテキは「舞台メイクや羽のような衣装をまとった母は妖精のようでした」と述懐している。 両親ともダンサーという環境のもとで、ミテキがバレエへの道を進むのは自然なことであった。ミテキがパリ・オペラ座学校への入学希望を表明した時、ポントワは敢えて反対した。パリ・オペラ座バレエ団のダンサーになるための道のりの困難さをよく知っているだけに、ミテキがどれだけ確固たる意志を持っているか確かめる意図があったのだ。 ミテキはパリ・オペラ座学校に入学を果たしたが、その後は努力とレッスンの日々で遊ぶ時間は皆無だった。それでもミテキはバレエに対する情熱を持ち、両親の理解と励ましのもとで夢の実現に向けて進み続けた。 ポントワはパリ・オペラ座バレエ学校時代のミテキについて、「ノエラ・ポントワの娘」と常に周囲から見られていたことを気にかけていた。それは、母親がパリ・オペラ座バレエ団のエトワールという状況が、ミテキにとってマイナスに働いていたのではないかという懸念であった。もともとシャイで内気な性格のミテキにも、「ポントワの娘」というレッテルはプレッシャーとなり、つらい思いをすることもあったという。 パリ・オペラ座バレエ団に入団後のミテキについて、その表情やしぐさの中にポントワの姿を重ねる人々もいた。ポントワはミテキが自らのダンスを実現できることを願って、敢えてコンテンポラリーダンスの諸作品を踊るように強く勧めた。ミテキはさまざまな振付家のコンテンポラリーダンスに挑戦し、内面的な成長を遂げるとともにコンテンポラリー・ダンサーとして『春の祭典』(ピナ・バウシュ振付)の「生贄」などで高い評価を受けるに至った。 ミテキにとってダンサー生活での一番の思い出となったのは、ポントワのアデュー公演『くるみ割り人形』だった。「(母子で)同じ職業を選んだからこそ味わえる喜びもあったわ」とミテキは語り、ポントワも「娘と一緒に踊れるなんてめったにないこと。忘れられない思い出になったわ」と応えている。 ミテキはパリ・オペラ座バレエ団の同僚ダンサー、ジル・イゾアール(fr:Gil Isoart,1968年-)と結婚した。イゾアールはベトナム系フランス人で、パリ・オペラ座バレエ学校でミテキと知り合った。2人は当時の校長クロード・ベッシ―の提案でパートナーとして踊ることになり、やがて恋に落ちた。ポントワはミテキからイゾアールを紹介されたとき、「これ以上のパートナーはいない」と直感し、2人のことを積極的に後押ししたという。 ミテキは2001年に長女ジャドを出産し、1年間ダンサーを休業した。3年後には長男を出産し、2児の母となった。ミテキが母となったことは、ポントワにとって非常に嬉しいことであった。 引退後のポントワは、孫たちの面倒を見るのを楽しみとした。ポントワは母としてミテキとイゾアールのダンサー生活を見守り、祖母として孫たちの育児を手伝った。ミテキが幼少期、ポントワの母は育児への協力をせず、大勢のベビーシッターに頼らざるを得なかった。ポントワはミテキの育児を助けるため、できるだけ時間を取るように心がけていた。 やがてジャドは母と祖母の後を追ってパリ・オペラ座バレエ学校に入学した。3世代にわたってバレエダンサーの道を歩むことは、パリ・オペラ座バレエ団の長い歴史でも希有なことである。 ミテキは舞台を退いた後、幼児のダンス指導者の道を選んだ。ポントワ、ミテキ、そしてイゾアールは、ダンスや教育法について語り合うこともあるという。 ポントワとミテキは、バレエダンサーという同じ職業を選び、その経験を共有してきた。ポントワは2009年のミテキとの対談で「オペラ座のダンサーというのは、望めば誰もがなれるわけではないから。(中略)私たちはとても幸せだと思うし、共有できたからこそ、普通の母娘の関係を超えた、さらに深い関係が築けたと思うわ」と語り、ミテキは「ママへの思いは、とても言葉にはできないわ。代わりにビズー(キス)をさせてね」と感謝している。 パリ・オペラ座バレエ団の元エトワール、アニエス・ルテステュはポントワの生き方を称賛して、「私にとって、そして多くの人々にとって、偉大なダンサーです」と自著で述べている。
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