私生活-娘、そして孫たちとともにとは? わかりやすく解説

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私生活-娘、そして孫たちとともに

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/16 14:49 UTC 版)

ノエラ・ポントワ」の記事における「私生活-娘、そして孫たちとともに」の解説

経歴の節で既に述べたとおり、ポントワは日本人舞踊家工藤 大貮(くどう だいに、1943年-)との間に一女ミテキ・クドーもうけている。彼女が子供を産むと決めた時期は、エトワール任命から3年後のことであった1970年代初頭当時子供を産む女性ダンサー少数であり、しかもエトワール地位にある場合なおさらのことであった周囲こぞって反対したというが、ポントワは周りの声を意に介さなかった。当時の彼女にとって一番大切なのは、自分キャリアではなく子供方だった後年彼女は「女性として子供産んで成熟するのは、ごく自然なことだと思ったわ」と述べている。 ポントワは産後1か月半でバーレッスンを再開し、3か月後には舞台復帰していた。舞台出演の際には、幼いミテキをよく楽屋にも連れて行った。ミテキも母が楽屋内で衣装をつけているところや舞台メイクをしているところを見るのが大好きだった。後にミテキは「舞台メイクや羽のような衣装まとった母は妖精のようでした」と述懐している。 両親ともダンサーという環境のもとで、ミテキがバレエへの道を進むのは自然なことであった。ミテキがパリ・オペラ座学校への入学希望表明した時、ポントワは敢えて反対した。パリ・オペラ座バレエ団ダンサーになるための道のり困難さよく知っているだけに、ミテキがどれだけ確固たる意志持っている確かめ意図があったのだ。 ミテキはパリ・オペラ座学校入学果たしたが、その後努力レッスン日々で遊ぶ時間皆無だった。それでもミテキはバレエ対す情熱持ち両親理解励ましのもとで夢の実現向けて進み続けた。 ポントワはパリ・オペラ座バレエ学校時代のミテキについて、「ノエラ・ポントワの娘」と常に周囲から見られていたことを気にかけていた。それは、母親パリ・オペラ座バレエ団エトワールという状況が、ミテキにとってマイナスに働いていたのではないかという懸念であった。もともとシャイ内気な性格のミテキにも、「ポントワの娘」というレッテルプレッシャーとなり、つらい思いをすることもあったという。 パリ・オペラ座バレエ団入団後のミテキについて、その表情やしぐさの中にポントワの姿を重ね人々もいた。ポントワはミテキが自らのダンス実現できることを願って敢えてコンテンポラリーダンス諸作品を踊るように強く勧めた。ミテキはさまざまな振付家コンテンポラリーダンス挑戦し内面的な成長遂げとともにコンテンポラリー・ダンサーとして『春の祭典』(ピナ・バウシュ振付)の「生贄」などで高い評価を受けるに至った。 ミテキにとってダンサー生活での一番の思い出となったのは、ポントワのアデュー公演くるみ割り人形』だった。「(母子で)同じ職業選んだからこそ味わえ喜びもあったわ」とミテキは語り、ポントワも「娘と一緒に踊れるなんてめったにないこと。忘れられない思い出になったわ」と応えている。 ミテキはパリ・オペラ座バレエ団同僚ダンサー、ジル・イゾアール(fr:Gil Isoart,1968年-)と結婚した。イゾアールはベトナムフランス人で、パリ・オペラ座バレエ学校でミテキと知り合った2人当時校長クロード・ベッシ―の提案パートナーとして踊ることになり、やがて恋に落ちた。ポントワはミテキからイゾアールを紹介されたとき、「これ以上パートナーはいない」と直感し2人のことを積極的に後押ししたという。 ミテキは2001年長女ジャド出産し1年間ダンサー休業した3年後には長男出産し2児の母となった。ミテキが母となったことは、ポントワにとって非常に嬉しいことであった引退後のポントワは、孫たち面倒を見るのを楽しみとした。ポントワは母としてミテキとイゾアールのダンサー生活を見守り祖母として孫たち育児手伝った。ミテキが幼少期、ポントワの母は育児への協力をせず、大勢ベビーシッターに頼らざるを得なかった。ポントワはミテキの育児助けるため、できるだけ時間を取るように心がけていた。 やがてジャドは母と祖母の後を追ってパリ・オペラ座バレエ学校入学した3世代にわたってバレエダンサーの道を歩むことは、パリ・オペラ座バレエ団長い歴史でも希有なことである。 ミテキは舞台退いた後、幼児ダンス指導者の道を選んだ。ポントワ、ミテキ、そしてイゾアールは、ダンス教育法について語り合うこともあるという。 ポントワとミテキは、バレエダンサーという同じ職業選び、その経験共有してきた。ポントワは2009年のミテキとの対談で「オペラ座ダンサーというのは、望めば誰もがなれるわけではないから。(中略私たちはとても幸せだと思うし、共有できたからこそ、普通の母娘の関係を超えた、さらに深い関係が築けたと思うわ」と語り、ミテキは「ママへの思いは、とても言葉にはできないわ。代わりにビズー(キス)をさせてね」と感謝している。 パリ・オペラ座バレエ団の元エトワールアニエス・ルテステュはポントワの生き方称賛して、「私にとって、そして多く人々にとって、偉大なダンサーです」と自著述べている。

※この「私生活-娘、そして孫たちとともに」の解説は、「ノエラ・ポントワ」の解説の一部です。
「私生活-娘、そして孫たちとともに」を含む「ノエラ・ポントワ」の記事については、「ノエラ・ポントワ」の概要を参照ください。

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