石油コンビナート反対運動
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沼津市・三島市の石油コンビナート反対運動は、公害予防運動の最初の成功例として、後の公害予防行政や公害反対運動にも影響を与える。さらに公害対策基本法を制定するきっかけにもなった。 第一次石油コンビナート計画 沼津、三島の石油コンビナート計画は、1961年(昭和36年)2月に静岡県が「第六次静岡県総合開発計画」で、沼津、三島を含めた東駿河湾地域を重化学工業の最重点地域と位置付けた。 沼津市は、火力発電所、江浦湾の巨大タンカー接岸施設の設置が予定されていた。当初は公害問題が顕著ではなかった事もあり、漁業補償以外に特に異議はなかった。1961年(昭和36年)3月にアラビア石油を中核に、昭和電工、住友化学、東京電力が計画に参加。前後して、漁民らによる反対運動が活発化したが、同年末に補償問題に目処がついた事から沈静化。 計画では沼津市の大平、徳倉一帯をコンビナート候補として挙げていたが、地盤の問題で三島市梅名、函南町仁田になってしまった事から、沼津市として水産資源が豊富な江浦湾を犠牲にしてまでコンビナート計画をする理由を失ってしまった。その後、沼津市独自に牛臥に誘致しようとしたが立ち消えとなる。昭和37年7月に昭和電工がコンビナート計画が離脱した事で、計画全体が事実上頓挫した。 第二次石油コンビナート計画 第一次で頓挫した石油コンビナート計画だったが、関係者は東駿河湾地域でのコンビナート計画の復活を模索していた。その結果、1962年(昭和37年)5月に発表された全国総合開発計画内に東駿河湾地域は含まれていなかったものの、同年7月には閣議決定で工業整備特別地域として指定されるに至った。 静岡県は、第一次の頓挫した原因が地域間の利害関係の対立であった事から、沼津市、清水町、三島市の二市一町合併を推進。三島市がこの動きを警戒して、石油コンビナート計画復活への伏線を含んだ合併協議を牽制した。ちょうどその頃から、三島市が全国初の「環境衛生都市宣言」をしたこと、全国各地で公害問題が顕著になり始めた事から、環境意識が高まり始めた。 1963年(昭和38年)12月の合併協議会の終了間際、静岡県が石油コンビナート計画の復活を電撃発表する。第二次石油コンビナート計画は、住友化学が中核に、富士石油、東京電力が参加し、沼津市は静浦の大久保の鼻に巨大タンカー接岸施設、牛臥山付近に火力発電所、三島のコンビナートまでのパイプラインが予定されていた。加えて、沼津市としても、1963年(昭和38年)10月に片浜愛鷹地区の工業団地計画を提案して計画を推進する立場でもあった。しかしながら、前述の通り、既に公害問題が顕著になり始めていた事や静岡県の電撃発表に三島市が猛反発していた経緯もあり、最新の公害対策を施すとの静岡県の説明に対して、地域住民は不信感を強めるようになった。 先の三島市での環境意識の高まりもあり、電撃発表の翌日には三島市で住民による反対運動が起き始めた。沼津市としての反対運動は、牛臥山での火力発電所予定地の下香貫での大気汚染に懸念する声が高まり反対運動が始まる。1964年(昭和39年)2月には連合自治会会長が兼任する形で反対同盟が結成される。特に、御用邸を擁するほどの「天下に誇るべき住環境」を守る意識が強かったと言われる。 1964年(昭和39年)5月には、三島市の反対運動により富士石油が計画離脱。沼津市の方も火力発電所計画が白紙。ところが、先の片浜愛鷹の工業団地計画に住友化学、富士石油が石油コンビナートを設置するとの動きを見せ、片浜地区でも反対運動が活発化する。 同年9月16日に沼津市は計画撤回を表明し、更に市議会で反対決議が可決された。これにより、第二次石油コンビナート問題は完全決着した。
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