省営自動車笹津線
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「富山地方鉄道笹津線」の記事における「省営自動車笹津線」の解説
上記のように高山本線の開業により、貨物収入の多くを失った富山鉄道は、1932年(昭和7年)12月16日付を以て堀川新駅 - 笹津駅間の鉄道営業廃止申請及び損失補償金交付申請を行ったのであるが、この申請の是非を問うた1933年(昭和8年)1月18日の第九回鉄道会議において鉄道省は富山市営軌道や富山県営鉄道等の既存交通機関との連絡等の地方事情に鑑み、省営自動車を運行する旨を答弁した。 この方針によって、1933年(昭和8年)3月31日より鉄道省は富山駅 - 笹津駅間に自動車路線を開業させた。当時の新聞である『富山日報』は、運行本数は一日に往復40本もあり、富山駅 - 笹津駅間を高速度で連絡するので、運賃は富山鉄道線に比して4銭高くなるものの、「その乗り心地、スピードにおいてはるかに便益である」と評価している。また、富山駅、広貫堂前駅、大久保町駅及び笹津駅においては一般運輸営業を行うほか、蜷川駅、熊野駅、大沢野駅及び八木山駅においては旅客と共に小荷物及び貨物の取扱が行われ、富山駅、広貫堂前駅及び大久保町駅においては事務室、公衆電話、便所及び給湯室の設備が整備されることとなった。 『鉄道省年報』によると、1933年(昭和8年)度末において笹津線には、バスが2台、バストラクターが5台、トレーラーが6台、トラックが2台で合計15両が配備されていた。このバストラクターというのは、旅客及び貨物を同時に運輸できる車で、被牽引車を自由に切離すことができ、荷主の都合にも合せやすいことから重宝され、笹津線のほかに白城線や佐賀関線においても用いられた。『大沢野町誌』には「省営バスは、今までに見た事もないような大型車輌や荷物牽引車などを設備し、発着時間も正確であったので、利用者も漸次増えていった」とある。 一方で省営自動車笹津線のルートにおいてそれまで乗合自動車を運行していた富山電気鉄道系列の富山電鉄自動車は大きな打撃を受け、競合路線を休止するに至った。折から富山県一市街化を標榜し、富山県内の綜合的交通体系を樹立しようと努めていた富山電気鉄道社長の佐伯宗義は、省営自動車笹津線について富山笹津間は純然たる地方交通であって、国家の経営に属せしめる合理的必要性はなく、既存の富山鉄道に廃線補償を与えておきながら、なお富山電鉄自動車に競合する路線を開業させることは矛盾であると批判している。 1940年(昭和15年)12月1日には富山市内における一部路線を変更して、新大橋詰及び裁判所前の各停車場を廃止し、1942年(昭和17年)4月1日には広貫堂前駅及び八木山駅における手荷物及び貨物の配達取扱の範囲を縮小した。 省営自動車笹津線の廃線は1938年(昭和13年)公布の陸上交通事業調整法に基いて、1942年(昭和17年)9月16日に首相官邸において開かれた交通事業調整委員会によって富山県がその調整区域に指定され、旅客自動車運輸事業を富山電気鉄道へ譲渡合併すると定められたことによって決定された。1942年(昭和17年)11月8日の県下交通事業統合に係る第3回実行員会においては、各交通事業者間における最終的な申合せが行われ、この際富山電気鉄道には「民営の笹津線バスは省営バス以上に運行の充備を図ること」が求められた。1943年(昭和18年)1月1日を以て富山電気鉄道は、県下各交通事業者を統合し、富山地方鉄道と社名を改めている。そして1943年(昭和18年)2月28日限りを以て省営自動車笹津線は廃止され、同年3月1日から同区間の旅客運輸は富山地方鉄道に、貨物運輸は笹津町昭和運輸によって引継がれた。
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