相手方から見たイギリスの不誠実
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 00:12 UTC 版)
「三枚舌外交」の記事における「相手方から見たイギリスの不誠実」の解説
上記のように三協定は文言上は矛盾がないとの解釈も不可能ではない。しかし、1917年11月にロシア革命によって誕生したロシア革命政府によって旧ロシア帝国のサイクス・ピコ協定の秘密外交が明らかにされ、この秘密外交を知らなかった相手側にとっては複雑で不可解なものとしてイギリスは非難を浴びた。 アラブ側 アラブ側の中にはフサイン=マクマホン協定でのアラブの独立はイラクを含めたアラブ統一独立国家を模索しており、英仏勢力圏下でそれぞれ独立するとは考えていない者もいた。また当面の間は事実上、イギリスがシリア南部(現在のイスラエル・パレスチナ地域とヨルダン)と南メソポタミア(北部を除くイラクと、アラビア半島のペルシャ湾岸)を、フランスがシリア地域の大半とイラク北部を支配するサイクス・ピコ協定を知らされていなかった。そのためアラブ側は自身が想定していたより小さい範囲でしか統治できず、それらの地域さえフランスの影響下に置かれることとされたため、イギリス側への不快感を増大させた。 ユダヤ側 ユダヤ側から見れば、バルフォア宣言でエルサレム市を含めたパレスチナ地域での独立したユダヤ国家建設がイギリスによって支援されると考えていた。確かに文言では「ユダヤ民族居住地建設」となっているが、それではユダヤの悲願であるパレスチナ地域での独立したユダヤ国家建設は達成されない。また、サイクス・ピコ協定ではパレスチナを国際管理すること、フサイン=マクマホン協定を結んだフサイン・イブン・アリーもエルサレム市の行政権を主張していることは、聖地エルサレムを含むパレスチナ地域での独立したユダヤ国家建設の障害になるものであった。ただし、一番決定的なのは1939年の「マクドナルド白書」によるユダヤ人国家の否定(ユダヤ人移民の制限と、10年以内のアラブ人主導によるパレスチナ独立国の創設がうたわれていた)であり、イルグンやレヒなどの過激派が反英テロに走ることになり、ベングリオンら穏健派も、イギリスに頼ることをあきらめて自力で国家建設を目指すことになった。それに前後してドイツではNSDAPが政権を握り、ユダヤ人に対するホロコーストが横行する。さらに第二次世界大戦においてナチス・ドイツがヨーロッパを席巻し、枢軸国の敗戦に至るまでの数年間はユダヤ民族が絶滅の恐怖に晒されることになる。このため戦後には、長らく独自の国家を持たなかったユダヤ人には自民族の維持のための国民国家建設が必須と考えるシオニズム運動が従来以上に活発化し、1948年のイスラエル建国に結びついた。 なお、三枚舌外交は第二次世界大戦後にイスラエルが建国されたことによるパレスチナ問題が大きく注目されるが、アラブにとってはシリア南部と南メソポタミア、さらにトルコ・シリア・イラク・イランなどにまたがるクルド人地域などにも影響が及んでおり、必ずしもパレスチナ地域やユダヤ人・アラブ人だけの問題ではない。
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