白紙還元とP-3Cの導入決定
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「PX-L (航空機)」の記事における「白紙還元とP-3Cの導入決定」の解説
防衛庁は、昭和47年度こそPX-Lの基本設計着手を目指したが、第4次防衛力整備計画やYX計画が未決定であることや、PX-L開発の必然性が薄弱であること、また技術調査委託の結果について更なる検討が必要であると指摘されて、またしても技術調査研究委託費のみとなった。 このように度々見送られてきたこともあって、海上幕僚監部では、同年に決定されることになっていた第4次防衛力整備計画でこそPX-Lの本格的な開発が開始されるものと期待していた。しかし4次防の閣議決定前日にあたる1972年10月9日の国防会議議員懇談会において、次期対潜機、早期警戒機等の国産化問題を白紙還元し、国防会議事務局に専門家会議を設けて検討を継続することが決定され、4次防の主要計画には電子機器等の研究開発が盛り込まれたのみとなった。 当時、海自が保有していた約120機の固定翼対潜機のうち、P2V-7は1981年、S2F-1は1983年ごろまでに耐用命数に達して全機姿を消す予定であり、またP-2Jも1975年の80機をピークとして逐次減少するものと見積られていた。これらの減耗を補充し、必要最少限度の固定翼対潜機勢力を維持するためには、次期対潜機は遅くとも1980年ないし1981年ごろまでには部隊に配備し始める必要があった。このように時間的余裕が乏しかったため、海自は専門家会議の結論が1日も早く出ることを期待していたが、結局、第1回会合は1973年8月となった。しかしこの会議の準備の一環としてアメリカ側に資料を要求したところ、1973年7月、A-NEWシステム搭載のP-3Cの対日リリースが可能であるとの連絡を受けた。同年9月には岩国航空基地においてP-3Cのデモフライトが行われ、航空集団司令官や現場の隊員などの視察団が搭乗してシステムに触れる機会があり、その性能に深い感銘を受けていた。 1974年12月には専門家会議の答申が提出されたものの、国産計画に対してはコストや実現性の点で疑義を呈し、外国機の導入に言及しつつも更なる検討を促すという玉虫色のものであった。海上幕僚監部では、上記のようにタイムリミットが迫っていることもあって、国産機ではもはや間に合わないものと判断し、1975年5月から6月にかけて防衛部副部長を派米し、P-3Cの導入についての実地調査を行った。またこれと並行して、従来から検討されてきた国産開発や現存機等の改造機に加えて、国産の機体にアメリカ製のシステムを搭載するという折衷案についても検討が進められた。特に折衷案については、カナダがP-3Cの機体にS-3Aのシステムを組み合わせたCP-140の開発を進めていたことから、日本でも同様の手法が可能ではないかと期待された。しかしアメリカ側は、P-3Cのシステムは機体とセットでなければリリースしないと表明しており、S-3Aのシステムであれば単体でリリースできるとはされたものの、これはP-3Cのシステムと比べると大きく劣ったものであった。 これらの検討を経て、1977年8月24日の庁議において、防衛庁は、昭和62年度末までにP-3C 45機をライセンス生産により取得することと、53年度予算概算要求にP-3Cの購入費用などを計上することを内定した。これらの内容は12月の国防会議において承認され、P-3Cの導入が決定された。
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