病弱と継承問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 17:35 UTC 版)
朝廷では後小松上皇が院政を行っていたが、称光天皇は生来病気がちであり、嗣子に恵まれなかった。 応永29年(1422年)3月下旬(あるいは4月半ば)以降、天皇は体調を崩し、6月になるとますます病気が進行し、医師も匙を投げるほどであった。義持は9月11日に後小松上皇の代理として伊勢神宮に参拝し、その回復を願っている。 12月、称光天皇の病は奇跡的に回復したが、上皇は天皇の後継者の不在を心配して、8月に義持と仙洞御所で相談し、天皇の弟である小川宮を東宮(皇太弟)としていた(『本朝皇胤紹運録』『薩戒記』)。しかし、小川宮も称光天皇と同じように奇行が多く、応永30年(1423年)2月には小川宮が天皇の飼育しかわいがっていたヒツジをひどく欲しがり、強引に譲り受けておきながら即座に撲殺するという事件を起こすなど、兄弟仲も悪かった。さらに天皇は若く、まだ皇子に恵まれる可能性もあったので、この後継者指名はかえって上皇と天皇の関係を険悪にする事になった。 応永32年(1425年)2月16日、小川宮は早世し、後継者は再び不在となった。さらに、称光天皇は上皇に対する反発から退位を企てるという行動に出ている。同年6月28日に天皇は内裏を出奔しようとしたため、上皇の要請を受けた義持の仲介で慰留されている。天皇と上皇の確執を調停できるのは義持以外に存在しなかった。 しかし、天皇は若いとはいえ病弱で皇子の誕生は絶望的であった。このため上皇・義持共に後継者を持明院統光厳天皇流で唯一の男児(他にも男児はいたが僧籍に入っていた)である伏見宮家の伏見宮貞成親王に求めていた。しかし、貞成は54歳の同年4月に親王宣下を受けたが年齢的な問題があり、また貞成を後継者にしようとした事で上皇・天皇間の確執が再燃したため、3か月後の閏6月3日に貞成は出家せざるを得なくなってしまった。 7月25日、天皇は重病に倒れ、義持や中山定親らが慌てて参内するほどだったという。7月29日には天皇も死を覚悟したのか、生母の資子(二位殿)の院号定を行なうよう勅定を出している。しかし、義持からこれを聞いた上皇は「卒璽(軽率な行ない)」であるとして難色を示して同意しなかった。この時は義持の説得で、資子には准三后宣下、光範門院の女院号が定められた。8月1日になると称光天皇は重篤となり、母親の看病や義持の参内を受けた。このため回復の見込みは無いとして義持は葬儀の準備を始めていたほどであったが、8月2日になると天皇は快方に向かい、8月5日には全快した。この時の病気は邪気(風邪)だったという。 天皇に見るべき実績がなく、さらに室町幕府の意向で代始改元が認められなかった。改元は16年目に実現するが、その3か月後に崩御した。また、後光厳流の断絶が確実となったことや皇嗣の未定は政情不安に直結し、後南朝勢力が皇位奪還への動きを見せ始めた。
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