病弱な皇太子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 16:27 UTC 版)
「フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「病弱な皇太子」の解説
オーストリア皇帝フェルディナント1世の血統レオポルトロレーヌ公 エリザベート・シャルロット・ドルレアン カール6世神聖ローマ皇帝 エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル フェリペ5世スペイン王 エリザベッタ・ファルネーゼ アウグスト3世ポーランド王 マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ フランツ1世神聖ローマ皇帝 マリア・テレジア カルロス3世スペイン王 マリア・アマリア レオポルト2世神聖ローマ皇帝 マリア・カロリーナ フェルディナンド1世両シチリア王 マリア・ルドヴィカ フランツ1世オーストリア皇帝 マリア・テレジア フェルディナント1世オーストリア皇帝 通常、曽祖父母の数は8人となるが、フェルディナントは4人の曽祖父母しか持たない(血統の崩壊)。おそらくはこの近親婚が原因となったのであろう、生来フェルディナントは蒲柳の質であった。普通の身体でないことは外見からもはっきりと見てとれたといわれている(フェルディナントの妹マリア・アンナ(英語版)も兄と同様の障害を負っていたと言われている)。 フェルディナントを最も悩ませたのは、てんかんの発作であり、そのせいで彼はしばしば意識を失った。脳への負担が大きいとされてチェスも許可されなかった。ウィーンの人々からは「Trottel(馬鹿)」というあだ名をつけられた。健康問題から、フェルディナントは結婚も不可能だと考えられた。 皇太子殿下は不能症というわけではございませんが、殿下のお身体は婚姻生活により、お命を危うくされるやも知れぬ状態でございます。 — 皇帝の侍医ヨーゼフ・アンドレアス・フォン・シュティフト博士が提出した診断書 あまりの病弱さから帝位継承の実現が危ぶまれたが、相続順位法を遵守しようとした保守的なフランツ1世、次代に病弱な皇帝を戴くことで引き続き実権を握ろうとした宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒの思惑が一致し、次期皇帝となることが確実となった。 1830年9月28日、プレスブルクでハンガリー国王(ドイツ語版)ならびにクロアチア国王として戴冠した。父帝の存命中に王としての戴冠式が行われたことにより、神聖ローマ帝国においてローマ王が事実上の皇太子とされていたように、ハンガリー王位(とそれに付随するクロアチア王位)がオーストリア皇太子の兼ねる称号として再定義されたが、結果的にはフェルディナント一代限りのものとなり、英国のプリンス・オブ・ウェールズのように慣習として定着することはなかった。 1831年、サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世の三女マリア・アンナを妃に迎えたが、この結婚はもとより世継ぎの誕生を期待してのものではなく、次期皇帝としての体裁を整えるためのものであった。 1832年は、フェルディナントにとって生涯最悪の年だったといえる。8月9日、バーデン・バイ・ウィーンで肩を狙撃され、ショックで一時的に心停止に陥った。狙撃犯は死刑判決を受けたが、フェルディナントは父帝に掛け合い、終身刑に減刑させた。またクリスマスの頃には、きわめて深刻な発作を起こして生命の危機に陥った。12月19日に終油の秘蹟を授けられたほどだったが、どうにか持ちこたえた。
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