甲斐統治と本能寺の変とは? わかりやすく解説

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甲斐統治と本能寺の変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 06:41 UTC 版)

河尻秀隆」の記事における「甲斐統治と本能寺の変」の解説

秀隆の甲斐統治は2ヵ月程度という短い期間ではあったが、甲府盆地富士北麓都留郡において文書残存し黒印状用いた広域支配試みていたことが知られる内容としては、武田氏滅亡混乱の中で戦火恐れて逃亡した農民に対して住すれば作職安堵する呼びかけるもの、 西念寺寺領安堵富士参詣者に対す勧進免許与えたものや御師たちに対して権利安堵するものがある。諏訪郡においては統治を示す史料残存していないが、代官として弓削重蔵配置したと伝わる。 また武田遺臣九一色衆渡辺囚獄佑に対して仕官呼び掛けたとされるが、囚獄佑は応じなかったという。この様大半武田遺臣織田氏恐れて積極的に主従関係結ぼうとせず、甲斐国外へ脱出するか、逼塞して時勢うかがっていたもの考えられている。 天正10年1582年6月2日京都信長明智光秀襲撃され自害する本能寺の変が起こると、旧武田領の各地武田遺臣による国人一揆が起こる。同じ織田家中の同僚である森長可毛利長秀らが領地放棄し美濃帰還する中、滝川一益と秀隆は領国に留まった。 当時三河遠江駿河の3か国を領有した徳川家康甲斐併合企図し、武田遺臣らを用いた工作開始する6月5日米倉忠継折井次昌に対して甲斐武士徳川方帰属させる工作行い家康甲斐侵攻を待つように指示した。 翌6日には岡部正綱甲斐下山穴山領)に派遣して菅沼城の普請命じ穴山信君横死後の穴山領、穴山家臣衆を従属下に置いている。穴山領は秀隆の所領ではないが、この行動は秀隆に家康対す疑念抱かせるには十分であったとされる10日頃には、家康は秀隆の知己であったという家臣本多忠政(信俊)、名倉信光(喜八郎)を支援名目として甲府派遣した一説では、秀隆を説得して家康従属させるのが目的であったともいう。 12日家康岡部正綱曽根昌世通じて甲斐武士に秀隆の所領対象とした知行安堵状発給した。これは徳川氏甲斐計略企画していることを明示するものであった14日一揆勢と交渉していた本多忠政事態収拾のためとして秀隆に上方帰るように勧めた。しかし一方で岡部曽根甲斐国内で知行安堵状発給していることを察知した秀隆は、家康甲斐横領意図は確実と判断しており、忠政を斬殺して家康との断交意思明確にした。 18日、忠政の家臣呼びかけによって結集した武田遺臣襲撃され、岩窪において三井弥一郎討ち取られた。また自害したともいう。享年56。 秀隆の死により空域化した甲斐国は、相模北条氏直との争奪戦いわゆる天正壬午の乱」を制した徳川家康領した山梨県甲府市岩窪町には秀隆の首塚とされる河尻塚(甲府市指定史跡)、あるいは屋敷跡伝えられている。 息子の秀長は秀隆の遺領大部分相続できなかったが、羽柴秀吉仕え転戦して知行得た。のち関ヶ原の戦い西軍につき敗戦戦死または自害した。秀長の弟である鎮行はのちに江戸幕府召し出され子孫200俵の幕府旗本として存続した。 娘は初め浅野左近嫁いだ後家になっており、前田利家正室芳春院の姪にあたるという縁から、息子と共に前田家引き取られ養われることになった。後、利家の差配によって末森城主・土肥親真再嫁し、土肥家次を儲けた。親真が賤ヶ岳の戦い戦死すると利家より知行100石を与えられ末守殿と称された。浅野左近末守殿の息子は利家の命で前田家重臣青山吉次養子入り青山長正名乗った吉次死後はその家督継ぎ魚津城代を務めた

※この「甲斐統治と本能寺の変」の解説は、「河尻秀隆」の解説の一部です。
「甲斐統治と本能寺の変」を含む「河尻秀隆」の記事については、「河尻秀隆」の概要を参照ください。

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