甲斐統治と本能寺の変
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秀隆の甲斐統治は2ヵ月程度という短い期間ではあったが、甲府盆地や富士北麓、都留郡において文書が残存し、黒印状を用いた広域支配を試みていたことが知られる。内容としては、武田氏滅亡の混乱の中で戦火を恐れて逃亡した農民に対して環住すれば作職を安堵すると呼びかけるもの、 西念寺へ寺領安堵と富士参詣者に対する勧進免許を与えたものや御師たちに対して権利を安堵するものがある。諏訪郡においては統治を示す史料は残存していないが、代官として弓削重蔵を配置したと伝わる。 また武田遺臣で九一色衆の渡辺囚獄佑に対して仕官を呼び掛けたとされるが、囚獄佑は応じなかったという。この様に大半の武田遺臣は織田氏を恐れて積極的に主従関係を結ぼうとせず、甲斐国外へ脱出するか、逼塞して時勢をうかがっていたものと考えられている。 天正10年(1582年)6月2日、京都で信長が明智光秀に襲撃されて自害する本能寺の変が起こると、旧武田領の各地で武田遺臣による国人一揆が起こる。同じ織田家中の同僚である森長可、毛利長秀らが領地を放棄し美濃へ帰還する中、滝川一益と秀隆は領国に留まった。 当時三河、遠江、駿河の3か国を領有した徳川家康は甲斐の併合を企図し、武田遺臣らを用いた工作を開始する。 6月5日、米倉忠継、折井次昌に対して甲斐の武士を徳川方へ帰属させる工作を行い、家康の甲斐侵攻を待つように指示した。 翌6日には岡部正綱を甲斐・下山(穴山領)に派遣して菅沼城の普請を命じ、穴山信君横死後の穴山領、穴山家臣衆を従属下に置いている。穴山領は秀隆の所領ではないが、この行動は秀隆に家康に対する疑念を抱かせるには十分であったとされる。 10日頃には、家康は秀隆の知己であったという家臣の本多忠政(信俊)、名倉信光(喜八郎)を支援を名目として甲府へ派遣した。一説では、秀隆を説得して家康に従属させるのが目的であったともいう。 12日、家康は岡部正綱と曽根昌世を通じて甲斐の武士に秀隆の所領を対象とした知行安堵状を発給した。これは徳川氏が甲斐計略を企画していることを明示するものであった。 14日、一揆勢と交渉していた本多忠政は事態収拾のためとして秀隆に上方へ帰るように勧めた。しかし一方では岡部、曽根が甲斐国内で知行安堵状を発給していることを察知した秀隆は、家康の甲斐横領の意図は確実と判断しており、忠政を斬殺して家康との断交の意思を明確にした。 18日、忠政の家臣の呼びかけによって結集した武田遺臣に襲撃され、岩窪において三井弥一郎に討ち取られた。また自害したともいう。享年56。 秀隆の死により空域化した甲斐国は、相模の北条氏直との争奪戦、いわゆる「天正壬午の乱」を制した徳川家康が領した。 山梨県甲府市岩窪町には秀隆の首塚とされる河尻塚(甲府市指定史跡)、あるいは屋敷跡が伝えられている。 息子の秀長は秀隆の遺領の大部分を相続できなかったが、羽柴秀吉に仕え転戦して知行を得た。のち関ヶ原の戦いで西軍につき敗戦、戦死または自害した。秀長の弟である鎮行はのちに江戸幕府に召し出され、子孫は200俵の幕府旗本として存続した。 娘は初め浅野左近に嫁いだが後家になっており、前田利家の正室・芳春院の姪にあたるという縁から、息子と共に前田家へ引き取られ養われることになった。後、利家の差配によって末森城主・土肥親真に再嫁し、土肥家次を儲けた。親真が賤ヶ岳の戦いで戦死すると利家より知行100石を与えられ末守殿と称された。浅野左近と末守殿の息子は利家の命で前田家重臣の青山吉次の養子に入り、青山長正と名乗った。吉次の死後はその家督を継ぎ、魚津城代を務めた。
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