生誕、絵を学び、ワイン商へと
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「ジャン・デュビュッフェ」の記事における「生誕、絵を学び、ワイン商へと」の解説
1901年7月31日、セーヌ=マリティーム県のル・アーヴルに生誕し、ジャン=フィリップ=アルチュール・デュビュッフェと名付けられた。父母の家業はワインの卸売りであった。1908年に、リセ・フランソワ一世校に入学。ジャンの晩年の『駆け足の自伝』によれば7-8際の頃に母と旅行し、そこで田園で女性が風景を描いているのを見て、帰ってから真似て描いたという。ジャンの父は無神論者で、ジャン自身は旧友の影響で聖体礼儀を受けたがまもなく自身の判断で信仰をやめた。16歳には文学に目覚めボードレールの『悪の華』に感動したが社交的な性格でもあり、またル・アーヴル美術学校の夜間課程に通った。翌1918年7月、国際バカロレア第二次試験に合格したがジャンの自由は制限されており、法律を学ぶか父の会社で会計を習うかの選択肢を父に突きつけられ、法律を学ぶということでパリに行くことにした。9月末にパリへ向かい、ジャンは学生街カルティエ・ラタンに部屋を借り、画塾のアカデミー・ジュリアンに通うが伝統的な指導に嫌気がさし、古い芸術感を拒む時代の雰囲気を嗅ぎ取ってはいたが、どういうスタンスをとればいいのかいまいち掴めなかった。1921年には知人を介してアンドレ・マッソンに出会い、そのアトリエは俳優アントナン・アルトーや、民族学者ミシェル・レリス、作家マルセル・ジュアンドーなど才能ある若者のたまり場であった。この時期の作品には「ジョルジュ・ランブールの肖像」などがあり『アヴァンチュール』誌にて発表されたこともあった。 ジャンは1927年にポーレット・ブレと結婚し、1929年に娘が生まれるとジャンは血族とは何らつながりを持たず自らでワイン会社を設立した。事業が軌道に乗ると絵を描きたい衝動が再び影を見せるようになり、1933年にはアトリエ用の部屋を借りた。そうして余暇で絵を描いてきたが1942年には、ジャンはただ絵を描きたいという望みのままに、信頼するリッチェールに会社の経営権を譲った。ジャンの絵はほどなくして注目が得られたが、絵を売りたくないというジャンは画廊の経営者であるルネ・ドルーアンに説得されて、その画廊で1944年10月20日から約1か月「ジャン・デュビュッフェの絵画とデッサン」展が開催され、発表した作品は数日で売却予約が完売した。購入者には小説家のアンドレ・マルローも居た。しかし、異様な個性、不器用で無個性などジャンの芸術を侮辱する反響も大きく、そのためにも注目を集め会期が延長された。
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