生誕 - 大学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 04:59 UTC 版)
1947年6月19日、茨城県石岡市に土木工事会社のサラリーマンであった父、地元で大きな酪農家の娘であった母の間に生まれる。三人兄弟の長男。 生まれた時から病弱な子で、戦後間もない時期で食料や物品が欠乏していたこと、大きな病院もない田舎だったこともあり、幾度となく死線をさまよったことがあった。父方の祖父は代々続いた鳶職の親方で祖母は師範学校出身の教師をしており、幼少期は石岡市内にあったこの祖父母宅で育った。乳児期、幼年期を過ぎると以前のような病弱さは影を潜め、保育園ではボス的な存在だった。一方で、当時から周囲と同じことをすることに苦手意識も感じていた。 石岡市立石岡小学校に入学するも、父親の転勤で2年時より三重県四日市市の四日市市立塩浜小学校に転入。さらに父親の転勤で神奈川県川崎市に引っ越し、川崎市立浅田小学校に転入。その頃から柔道を習い始める。 川崎市立京町中学校に入学。小学校時代から続けてきた柔道でたびたび、市や県の大会で優勝を飾り、中学3年時には初段をに昇段。神奈川県立新城高等学校に進学。高校入学後に柔道で二段を獲得する。 1966年(昭和41年)、拓殖大学商学部貿易学科に入学。高校時代は決して裕福ではなかった家庭の経済状況などから、世の不平等を痛感し、自分が何をすべきか分からぬまま焦燥感で荒れた生活を送っていた時期もあったが、父親の「大学だけは出ておけ」という言葉もあり、消極的理由から進学を選んだ。拓殖大を進学先に選んだのは、柔道の木村政彦の出身校であり、当時は木村が同大学の柔道師範を務めていたことも理由のひとつであった。当時は多くの学生が政治活動に傾倒していたが、渡辺自身はノンポリで全く政治活動に傾くことがなかったが、同時に学業にも興味がわくことはなかった。
※この「生誕 - 大学」の解説は、「渡辺喜久男」の解説の一部です。
「生誕 - 大学」を含む「渡辺喜久男」の記事については、「渡辺喜久男」の概要を参照ください。
- 生誕 - 大学のページへのリンク