現実との違い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 01:34 UTC 版)
スーホは羊を暗くなるまで草原で放牧しているが、実際にその状態ではオオカミに羊が襲われるため日が暮れる前に連れて帰る。 馬とオオカミが戦うことは実際にもあるが、一対一で戦うことはなく、作中にも登場する犬が猟犬や番犬の役割であるため馬はそのような状況にはならず、オオカミの群れに襲われた際に子馬は円になり、オス馬が立ち向かうことがあり、塞野はそれを元に馬の賢さやスーホと馬の強い結びつきを強調するために入れた場面であると考えられる。 馬の競走で一等になった人は殿様の娘と結婚させることになっているが、子供ではその相手にならず、大人であっても馬に乗るのは小柄、痩せた人であるためこれまた考えられず、物語によく登場する白馬の王子様のように格好よさ、逞しい人が元になっているとみられ、そこから結婚という褒美が設定された創作的なものである。そしてモンゴルでは女性の地位は低くなく、女性を賭けて勝負する遊戯はない。 『馬頭琴』では競走が行われたのは春だが実際には夏に行われるもので、それは常識である。 馬は弓に射抜かれて死ぬが、モンゴルでは動物をむやみに殺してはいけないという習慣がチンギス・ハーンの時代からあり、殿様がどれだけ悪人であっても殺すことは考えられず、文化の違う中国向けにわかりやすくしたものとみられる。また、実際にはモンゴルの遊牧民は馬の扱いに慣れており、よほどの暴れ馬でもなければ捕まえ、乗りこなすことができるため、本作のような描写について、ミンガド・ボラグが取材した内モンゴルのある作家はそれを知ってモンゴル文化の侮辱だと批判している。 スーホは馬に刺さった矢を抜き、血が傷口から吹き出すが、現実では羊毛を燃やして傷口を焼いて止血し、化膿も防ぐ。この治療法はモンゴル草原の常識であり、ミンガド・ボラグはこれらからしてモンゴル文化の知識に乏しい人による作品であることがわかるとする。 『スーホの白い馬』の殿様は『馬頭琴』では「王爺」となっているが、チャハルにはそれに相当する世襲制王爵のような王、王爵はなく、ミンガド・ボラグは同作最大のミスで、現地で伝承されている民話として成立しないと指摘している。 以上のように指摘されている様々な矛盾点は塞野が『内蒙古日報』に投稿した際に編集部内で行われた修正により生じたものであると考えられる。 『スーホの白い馬』がモンゴルで知られていないのは元になった中国語版『馬頭琴』が社会主義的考えから中国人作家によって書き足され、モンゴル文化に反する場面が多いからであるとみられる。 ただし、ミンガド・ボラグは、「『スーホの白い馬』が、世界中の子供たちの心に響く一冊であることに違いはない」という評価も記し、新聞への寄稿文では「日蒙(にちもう)の大切な絆であり続けてきたのが『スーホの白い馬』なのである」「モンゴルの人間である私の心に郷愁を覚えさせる」としている。
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