現地駐留軍の捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 16:04 UTC 版)
「ベンジャミン・バサースト (外交官)」の記事における「現地駐留軍の捜査」の解説
クラウゼや御者たちはしばらく待った後、「白鳥」でバサーストを捜したが、見当たらなかった。そこでバサーストが護衛を求めてクリッツィング大尉のもとに向かったかもしれないとクラウゼが思いつき、ヒルベルトが23時にクリッツィングのもとを訪れた。バサーストはクリッツィングのもとにはいなかったが、バサーストの失踪を聞いたクリッツィングはすぐに行動し、「白鳥」に急行してクラウゼなどを馬車に乗らせ、護衛をつけてペルレベルクにある別のインに住ませた。 「白鳥」にも護衛兵がつけられ、翌朝には早くも捜査が始まった。近くの川、森、沼地、溝などあらゆる場所が調べられたが、バサーストの痕跡は無く、クリッツィングは捜査の結果を待った後正午にキュリッツ(英語版)に向かった。クリッツィングはキュリッツで上官のビスマルク大佐(Bismark)の許可を受けてベルリンに向かい、捜査権を確保して翌日にペルレベルクに戻ってきた。また、バサーストが所持していた毛皮のコートが無くなったためこれも捜されたが、26日のうちは見つからなかった。 毛皮のコートは11月27日にシュミット家(Schmidt)の穴蔵で発見された。シュミット女史(「白鳥」の従業員の1人)は駅家で毛皮のコートを見つけて持ち帰り、息子アウグスト・シュミット(August、同じく「白鳥」の従業員)に与えたと証言し、アウグストは母が知らない男性を見かけており、「その人がピストルを2丁持っていて、母に火薬(powder)を買ってくるよう求めた」と述べた。そのため、アウグストは男性が自殺したと推測した。これらの供述により、2人は窃盗罪で投獄されたが、後に恩赦を受けて釈放された。 事件のとき、「白鳥」ではユダヤ人商人2名が滞在しており(2人はバサーストが来た後に到着)、クラウゼや御者がバサーストを待っている間に出発した。2人も調査を受けたが、裕福な人物でまわりから尊敬されており、容疑者から外された。 以降11月30日から12月6日にかけてペルレベルク近くのシュテペニッツ川(英語版)の浚渫など捜査が続けられたが、成果はなかった。 12月16日、ペルレベルクから約3マイル離れた森で薪拾いをしていた女性2人が汚れたズボンを見つけた。ズボンには弾痕が2つあったが、血痕はなく、ポケットにバサーストから妻宛ての未完成の手紙が入っていた。手紙は鉛筆で書かれ、その内容は「イングランドにたどり着けないことを恐れている」「私の破滅はアントレーグ伯爵の所為」「戻ってこなかった場合でも再婚しないでほしい」といったものであり、25日の午前中に書かれたものとされる。クラウゼが手紙を読んだところ、バサーストの筆跡であると認めた。ズボンにある弾痕は専門家の調査の末、地面に置いてあるズボンに向けて銃を撃ってできた弾痕であり、ズボンを着ているバサーストが撃たれてできたものではないことが判明した。また、セイビン・ベアリング=グールドは状況からして、ズボンが捜査の打ち切られた12月6日以降に置かれたものであると判断している。ネヴィル・トムソンによると、ペルレベルクではバサーストの失踪以降、連日のように雨が降ったが、バサーストの手紙がまだ読める状態だったため、ズボンが長期間その場に置かれていたわけではなかった。 クリッツィングの保護を受けていたクラウゼ(このとき、偽名を「クリューガー」(Krüger)に変えた)とヒルベルトは12月10日にベルリンに向かい、そこからウィーンに戻った。
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