王制キンダ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 06:03 UTC 版)
5世紀中葉に、キンダ族に属する一部族、バヌー・ムアーウィヤからフジュル Ḥudjr またの名をアーキル=ル=ムラール Ākil al-Murār という人物が出た。アーキル=ル=ムラールは、ヒムヤル族の援助の下、アラビア半島南部から中央部、さらには北部へと進出し、当時これらの地域で覇権を握っていたマアッド族 Maʿadd に代わって支配権を得ていった。アーキル=ル=ムラールから3世代下った4世代目ぐらい(イムル=ル=カイスの世代あたり)までが王制キンダ al-Kindat al-mulūk と呼ばれている。 アーキル=ル=ムラールはヒムヤル族の王ハッサーン・トゥッバ Ḥassān Tubbaʿ と義理の兄弟の関係にあり、ヒムヤル王国の伝統に従って息子のアムルを宮廷に近習として仕えさせていた(これには人質としての意味もある)。アラビア半島中央部(ヤマーマ)への進出は、当初、ハッサーン・トゥッバが主体であり、アーキル=ル=ムラールは彼に従って従軍し、占領地の統治を任されていた。ハッサーンがジャディー族への遠征の帰り、ハッサーンの弟の一人の煽動により殺されると、アーキル=ル=ムラールはそのままヤマーマを中心に支配権を確立した。アイヤーム ʿAyyām あるいはヤウム=ル=バラダーン Yawm al-Bradān と呼ばれるアラブの戦乱の時代に関する語りにおいて、アーキル=ル=ムラールはよく、その好敵手である、ビザンツ皇帝と同盟を結んだアラブの王、サーリフ族 Ṣāliḥ のハブーラの息子ズィヤードとともに言及される。 アーキル=ル=ムラールの息子アムルの息子ハーリス al-Ḥārith b. ʿAmr がキンダ王国の歴史上もっともよく知られた人物であり、当時、その名はアラビア半島内のみならず、サーサーン朝ペルシア帝国やビザンツ帝国にまで、それらの同盟国であったアラブのラフム朝やガッサーン朝を介して知れ渡った。西暦500年前後にハーリスの息子たちがビザンツ帝国の辺境を侵し、502年に帝国はハーリスと講和条約を結ばざるを得なくなった。ペルシアは一時的にマズダク教を受け入れたハーリスに対してヒーラの町を治めさせた。しかしハーリスがヒーラを治めたのはカワード1世帝の没後のごく短い間だけで、その後はビザンツ皇帝からパレスチナ地方におけるピュラルコス(英語版)への任命を受けた。ところがその後、ハーリスは同属州の総督ディオメデ Diomede との間で諍いが起きて、沙漠へ逃げたところを殺された。ハーリスを殺したのはラフム家のムンズィル Mundhir とも、カルブ族 Kalb に属する誰かとも言われる。 ハーリスはマアッド族がかつて支配下に置いていた部族を、4人の息子に分割支配させた。例えば長男フジュルはアサド族 Asad を、四男マァディー=カリブはカイス族 Qays とキナーナ族 Kināna を支配した。しかしハーリスの死後に兄弟間の争いが表面化し、キンダ王国は混乱していった。530年前後にビザンツ皇帝はペルシアに対抗するため、エチオピア、ヒムヤル王国、キンダ王国に、ユリアンとノンノソスの2名の外交使節を送り、同盟を求めた。外交使節らはハーリスの孫とみられるカイス Qays という人物に、ナジュド地方の権益を手放させる代わりにパレスチナ地方の権益を認めて、カイスの兄弟との争いを仲裁した。ただしこの外交にはヒムヤル族とキンダ族との不和を作出する意図もあった。 6世紀後半のキンダ王国が瓦解状態にあったのは明白である。ハーリスの子孫らの兄弟殺しに加えて、ハーリスの父アムルの弟ジャウン al-Djawn の子孫にあたる系統のキンダ族(バヌー・ジャウン)も、昔から反目を続けていたタミーム族 Tamīm とアーミル族 Āmir との争いに巻き込まれてほぼ壊滅した。当時あまりにも不安定になったキンダ族の状況に鑑みて、彼らは故地であるハドラマウトに戻ることを決めたと伝えられている。 ビザンツ帝国の年代記作家は、ハーリスの息子フジュルの名をオガロス Ogaros の名で伝えている。ビザンツ帝国の年代記によると、フジュルは他の兄弟同士の争いから身を引いていたが、次第に支配下の部族がキンダ族を侮るようになると、懲らしめのためそれらの部族に遠征したという。しかし幕屋にいたところにアサド族の奇襲を受け、殺された。Encyclopaedia Islamica, first edition はこの時点をキンダ王国の実質的な終焉と見る。父フジュルに随行していた王子イムル=ル=カイスは辛くも逃げ出し、以後、自部族の再浮上のために奔走した。最終的にイムル=ル=カイスはコンスタンティノープルへ向かい、皇帝に援助を願ったが受け入れられず、失意の中アラビアへ戻る途中、現代のアンカラ付近で暗殺された。
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