玉川毒水との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 19:42 UTC 版)
玉川の毒水除去の試みも江戸時代からあり、とくに天保から嘉永にかけての角館城下町の町人田口幸右衛門宗俊・宗辰の父子が知られている。 豪雪をともなう山塊から無数の沢水を集めて流れる玉川は、水量きわめて豊富ながら、田沢村の上流奥深くにある玉川温泉から噴出する大量の強酸性水(毒水)のため大規模な除毒工事を必要とした。玉川温泉はpH1.03〜1.25で国内の温泉では最低のph値を示し、また、「大噴(おおぶけ)」と呼ばれる湧出口は単一の湧出口からの湧出量としては日本最多の毎分9,000リットルを湧出する。湯治効果はきわめて大きいものの、下流域にあたえる農業にあたえる被害もまた甚大であった。また、その被害は、飲料水、水産業、土木工作物の酸化など多方面におよんだ。 郡奉行の要請を受けた角館の田口宗俊は、天保12年(1841年)に工事に取りかかったものの、7年後に玉川温泉の毒気のために死去してしまった。その子の田口宗辰は、藩からの支援を一切受けず、毒源に流入していた沢水を改修して真水の迂回水路をつくって下流で合流させ、また、湧出泉が流下する湯川を掘り下げ、そこに土砂を投げ込むことによって毒分を減じることに成功した。この方法は掘流法(流し掘り)と呼ばれている。宗辰は人夫の労賃その他の費用にすべて私財を投じ、12年の歳月をかけ、嘉永5年(1852年)に工事を完了させた。3,600石の米の増収や中・上流でもサケ・マスが漁獲できるようになるなど、除毒に一定の成果をあげた宗辰はその功により士分に取り立てられたが、玉川温泉が奥深い山間地であることによる人手不足や水害などのため、堰が壊れてからは効果が減退してしまった。 慶応2年(1866年)には鑓見内村(長野)の小松市右衛門が地下溶透法による修復に乗り出している。地下溶透法とは、地下深く井戸を掘って酸性水を注入し、地中で粘土や岩石と混合させて化学的に中和させる方法である。この方法は、市右衛門が湯川に落ちて火傷を負ったことから3年で中断を余儀なくされたが、その効果が確かなものであることは広く知られることとなった。 明治から大正にかけては、除毒に関してはほとんど放置の状態に近かった。昭和初期になって、ふたたび地下溶透法による除毒がなされ、ろ過・中和された水を地下水として放出することもおこなわれたが、満洲事変の勃発などにともない放置されるようになり、もとの毒水に戻ってしまった。
※この「玉川毒水との戦い」の解説は、「田沢疏水」の解説の一部です。
「玉川毒水との戦い」を含む「田沢疏水」の記事については、「田沢疏水」の概要を参照ください。
- 玉川毒水との戦いのページへのリンク