狭かった国際金融市場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:32 UTC 版)
「イングランド銀行」の記事における「狭かった国際金融市場」の解説
1880年からのボーア戦争では、植民地政府などのために次の金融機関と組んで、非難を浴びながらも国債発行の代理人となった。モルガン・グレンフェル、ベアリングス銀行、ロスチャイルド、JPモルガン 1890年、デフォルト寸前のベアリングス銀行を救済。同行の損失を秘匿しつつ、政府・シ団と組んで保証基金を設置、450万ポンドの外債をとりつける。やがて公衆の知るところとなり、1893年恐慌に発展する。 1895年、横浜正金銀行の指図でか、イングランド銀行は下関条約の賠償金を市場に放出。資金は供給過剰となる。 1899年、インドを金為替本位制とする。インドは植民地であり、世界的な銀消費国でもあった。1ポンド=銀貨15ルピーとした。前もってブリュッセルで国際通貨会議が開かれていた。飢饉に困ったインド人が銀製品の装飾品を売ることで銀価の低落が起こらないように、それから税収を安定させるために、植民地政府は世界で初めて本格的な灌漑事業をインドに展開した。 1901年、ルピー銀貨の鋳造益を充てていたインドの金本位準備をロンドンへ移送。翌年、インド政庁管轄の紙幣準備の一部をイングランド銀行へ預託させるとともに、同政庁に金の自由鋳造を断念させる。こうしてルピーを弱めたイギリスは、その輸出においてインド全輸入の6割超を占めた。 1901年4月に6千万ポンド、1902年4月に3200万ポンドのコンソル債を一括引受で発行。 1903年、プランテーション植民地のマレーシアが、インドと同様に金為替本位制に編成された。 1907年恐慌まで日銀から借入。この時期をはさみ、1895年と1908年に増収目的で保有証券を売却。また、この恐慌以後はライヒスバンクが、兌換を部分停止したり、またイングランド銀行に対抗して金利を設定したりして、正貨流出の抑止に努める。 1909年以降、金本位準備の一部を預金銀行やマーチャント・バンカーに短期通知貸。さらに金本位準備は、もともと新規国債の消化と市場に流通する国債の買い支えに利用されていた。
※この「狭かった国際金融市場」の解説は、「イングランド銀行」の解説の一部です。
「狭かった国際金融市場」を含む「イングランド銀行」の記事については、「イングランド銀行」の概要を参照ください。
- 狭かった国際金融市場のページへのリンク