父・島本敬一
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島本の父・敬一は、航空界、航空機に造詣が深く、輝く未来を航空機に見ていた。敬一はグリコ製菓宣伝部に在籍時、次のような企画書を作成した。 『児童に工作知識 を普及させ、自作の軽飛行機での帆走飛行により工作、航空の興味を育む。商品発売に資するため、模型飛行機の材料を提供して自作模型模型飛行機による帆走競技の実施を企画して実行する。その一つに模型飛行機を人が操縦して滑空知識の助成に努める。大日本帆走協会の帆走大会に参加して滞空飛行の記録を作る事を意図し、福岡前田航研にてグリコ号を製作して、大日本飛行協会開催のグライダーによる記録飛行の樹立に資するように協力した。』 (敬一企画書引用) この企画書により前田航研で作られたグリコ号にまつわる話を、息子真は次のように説明した。 敬一は、航空思想の喚起と、模型飛行機を作ることで工作能力の養成を計り、あわせてグリコ販売の促進計画を立案、グリコ愛好者に模型飛行機材を景品として呈上した。景品の模型飛行機機材で組み立てられた製作機で、帆走競技会を地区毎に開催し、優秀者を表彰、各地区大会の後全国大会を開催する。この会の権威とシンボルとして、高等帆走機(グライダー)を製作し、グリコ号と命名した。毎日新聞社と大日本飛行協会との共催で生駒山上での帆走滞空競技に参加して、滑空記録達成のため日本で初めてのカンチレバー(胴体から翼が出ている)、長時間滞空可能の目的で操縦席はセルロイド・カバーを取り付けた。操縦は海軍航空隊出身の長時間飛行歴がある松本滑空士が操縦して、昭和12年5月23日、生駒山で行われた第1回全日本帆走飛行大会に参加した。グリコ号は、発航帆走後7分で操縦席カバー故障のため、山腹に墜落破損しこの企画は挫折した。敬一は、毎日新聞社の羽太航空部長と共に再度決行を要請し懇願したが、当時の古藤専務取締役の賛成を得る事が叶わず中止断念する事となった。失望した敬一はその後機会を得てグリコを退社した。 敬一は、大日本飛行協会大阪支部長であった陸軍少将鶴見駿太郎(当時閣下)の要請で、同会の嘱託として航空思想普及の仕事にあたった。陸軍少将鶴見駿太郎との経緯は、敬一が現役兵として歩兵第37連隊所属の時の大隊長であり、師として仰いでいた。鶴見少将は退役後、大日本飛行協会大阪支部副支部長として航空思想普及に貢献していた。また、敬一は関連して日本の航空の創始者と伝えられる、二宮忠八翁の飛行機会の評議員としても助勢するなど、敬一の航空界に寄与した役割は大きく、その意志は息子である真にも引き継がれた。 敬一は三菱商事森下仁丹、江崎グリコと奉職、そのあとも大手企業数社に職を得るが、いずれも招聘されての就職あった。後半の人生では、常に数社の企業の顧問としてその経験と知識を生かした。敬一は95年の天寿を全うし、その最後の年まで地域活動に積極的に参加すると共に、自身の見識、経験を講演の形で発表し社会に還元していた。
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